つねちゃんが英雄になってしまうという懸念はただのマッチポンプだよ

 つねちゃんは、――少なくとも、ぼくのけして長いとはいえない付き合いから言えば――人並みには臆病だ。
 警察という保障がありながらも沿道の右翼の罵声には立ちすくんでしまうぐらいには*1臆病だ。
 そのつねちゃんが、自らすすんで在特会の暴力に晒されるためにプラカード(という名のただの紙切れ)をかかげたなんてありえない。
 
 つねちゃんがプラカードを掲げるのは、排外主義に対する明確な拒否以外の何者でもない*2。そのような、ある種の信念を貫くと呼べるような行為そのものが、好きでたまらない人がいるのは知っている。でも、そういう人は結局のところ、たとえば城内みのるでさえ賞賛してしまうのだろう。
 
 また、このような暴力が発生することは予期できたはずだから、(排外主義反対をかかげるのは)賢明ではなかったという人もいる。しかし、まさに排外主義が行われているその現場で排外主義に反対してはならないのであれば、われわれは一体どこで排外主義に反対すれば良いのだろうか。そのことについて、あたかもつねちゃんに「落ち度」があったかのようにされる論については、認めることはできない。
 
 つねちゃんは、暴力が問題なのではなくて、排外主義が問題なのだということを言い続けている。

■日の丸充なう
http://d.hatena.ne.jp/toled/20090929/p1
 nopikoさんが指摘したように、問題はここに物理的暴力がうつっていることではありません。フランス国王の支配を覆したのも、大日本帝国を倒したのも、暴力です。暴力はそれ自体が直ちに悪いわけではありません。
 しかしここには まごうかたなき悪があります。日の丸です。日の丸の暴力は、悪い。
 そして街を歩いてみれば、いたるところにこの悪の旗を見つけることができます。役所に、学校に、競技場に。その旗と旗をつなぐようにして外国人差別のシステムは日本国家を構成しています。それが、すでに暴力です。なにもおこっていないかのような日常が、常に暴力です。そして在特会はこのシステムを構成する一要素です。けっして例外的なゴロツキではありません。
 在特会を例外的な絶対悪として切り捨てたり、彼らの未熟さを嘲笑うことは、日本というもの自体の暴力や、「一般の」日本人の責任を曖昧にしてしまうでしょう。

この白昼堂々の暴力は、巷で言われているような一部の過激な連中の暴走などではけしてなく、在特会、あるいはこの「外国人参政権反対」というデモのテーマのうちにある、「排他的な国籍」というイデオロギーの向かう、当然の帰結に他ならない。「在特会は日の丸を汚している」と文句を言いながら、われわれは、合法的に日の丸を振って、外国人を排斥していく、あるいは「排他的な国籍」によって利益を得る。この本質的に排外的な社会のもっともダーティーな部分を、在特会は引き受けている。
 
 この問題はまさに、つねちゃんが以前からテーマにしてきたことであった。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20070727/1185546389
 銀行があって、消費者金融があって、闇金がある。リベラルなエリート校があり、軍隊的な底辺校があり、フリースクールがあり、戸塚ヨットスクールがある。天皇がいて、臣民がいて、軍幹部がいて、「無法者」がいて、「民間業者」がある。人間には「本能」があり「理性」があり「欲望」があり「良心」がある。組織には「無法者」がおり管理部門があり「良心的」構成員がいる。御用学者がいて、左翼知識人がいて、ネット右翼がいて、僕はブログを書いてストレス発散している。「永遠の嘘」は、これらの「全体」が、バラバラの互いに独立した「部分」に分かれているかのように演出する。で、何かあると適当な「無法者」を「トカゲの尻尾きり」して、システムは全体として存続していく。

このような視点をもつつねちゃんは、一番、自分が英雄でも殉教者ではないことをわかっていると思うし、同時に英雄にも殉教者になりえもしない。にもかかわらず、いったいなぜ、ある種の人はつねちゃんがそれらになってしまうことを恐れるのだろうか?
 
 既に述べたように、つねちゃん自身はこの暴行事件の問題は暴力にあると思ってはいない。しかし、少なくともはてブなどを参照する限り、この件に関してもっとも多い論調は、暴力が問題であるということである。「右であるか左であるかに関係なく」リンチはよくない。「在特会あるいはつねちゃんの主張はともかくとして」暴力はよくない。このような立場に立てば、つねちゃんは「純粋な」暴力の被害者であり、ゆえに英雄以外の何者でもなくなってしまう。
 
 近頃テレビで放映された映画を見てもわかるように、9・11の犠牲者は今なお英雄であるが、それは彼らが「無法者」によって殺されたからである。「テロリスト」という政治的なものを(半ば意図的に)剥奪された「絶対悪」の犠牲者であるというイデオロギーが、彼らの死に聖性を付与している。さらに、われわれが聖化された犠牲者にコミットすることで、その存在はわれわれに「絶対正義」を付与もするのである。
 
 つねちゃんは、本来ならば<「暴力に正義も悪もない。右も左も暴力はよくない」という(絶対)正義>の殉教者として、崇拝されるはずであった。にもかかわらず、つねちゃんがそれ以後発しつづけた(また、今まではっしつづけてきた)メッセージは、政治的なものの剥ぎ取りを一貫して拒否するものであり、つねちゃんへのコミットは、あたかも何かある特定の立場へ同時にコミットしなければならないようなものであった。ゆえに、つねちゃんは都合の悪い英雄であった。 しかし、この都合の悪い英雄は、「右でも左でもない」教の人々が勝手に作り上げた偶像である。つねちゃんが英雄になってしまいかねないというジレンマは、いわばただのマッチポンプといえよう。