米粒があたかも人間であるかのように――小池晃氏都知事選出馬への支持表明

 
――君たちはいつもそうだね。反石原統一候補はすでにいるのに、それが共産党だと分かると決まって別の候補を探そうとする。わけがわからないよ。どうして"現実主義"リベラルは、世論の支持にこだわるんだい?
 
 
※最初の数段落は左翼の人向けなので飛ばしてもらっても結構です
 わたしは一応ドイツの歴史なるものを研究していたりしていなかったりするので、議会制民主主義へのシニシズムに対してはもともと批判的でした。まさにそのシニシズムこそが、ワイマール体制を崩壊に導いた元凶だと思っていたからです。
 しかしここ数年、やはり議会制民主主義は本質的にはマジョリティとマイノリティの格差を追認することでしかないのではないか、という思いが強くなりつつあります。もちろんすぐできる改善はあります。(理念と実証科学に基づいた)選挙制度改革、供託金の廃止、外国人参政権の導入などです。しかし、少なくとも現在の日本の国政選挙・地方選挙に参加することは、現状の排除に加担することではないか?というまよいがあります。それよりは、選挙ではない政治参加のあり方を続けていくほうがよりよいのではないかと。

■今日は衆院選ーー極左のきもち
http://www.youtube.com/watch?v=bE2hqwrFQEs&feature=channel_video_title
(最初のうたは我慢して聞いてください)

 とはいえ、日本の政治が選挙制度からすでに排除されているようなマイノリティに対して、ありえないような暴力を行使し続けており、しかもここ最近ますますエスカレートし始めている状況において、直接行動と同様、わたしたち日本人の特権である選挙権を行使することもまたひとつの責務ではないか?ということも一方で思います。そのような堂々巡りのなかで、少なくとも次の都知事選については、「反石原」の意思表示をはっきりと示す機会として、参加することを決めました。
「今日は選挙に行きました。それでもわたしは左翼です」
 
 4月10日の都知事選を控え、聞こえてくるのは阿鼻叫喚の声です。出馬を表明する候補者がことごとく酷すぎるのにくわえ、引退を表明していた石原慎太郎が改めて出馬を表明したのです。それに対する絶望は、まだ選挙は始まっても居ないのに、あたかもすでに石原が次の都知事に決定してしまったかのようです。
 しかし、出馬表明は個人の自由です。問題は、有権者がかれを選ぶかどうかでしかありません。わたしたちは、石原慎太郎が過去12年のなかで何をやってきたかをしっています。破綻した新銀行東京、汚染された豊洲への築地市場移転強行、福祉の削減、オリンピック招致運動という無駄使いとそれに伴う身内への便宜供与、ひのきみ問題に代表されるような教育の管理化、非実在都条例、ババア発言や三国人発言、さらに障害者やセクシャルマイノリティへの一連の差別発言などなど、この人物が都知事に再選されることはもはやあってはならない事態であることを知っています。
 Arisanさんは、この選挙の争点は「反石原」であるといいます。そのうえで彼は、「今回の選挙に、石原が出るかどうかは、大きな問題ではない。」ともいいます。

東京都知事選について
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110307/p1
今回の選挙に、石原が出るかどうかは、大きな問題ではない。
「反石原」を掲げ、思ってきた人たちが納得のいく投票行動を行い、それが何らかの形として示されなければ、誰が当選しようと、この選挙は「反石原」陣営の「不戦敗」なのだ。

「反石原」というのは、たんに石原慎太郎という個人に反対するということではありません。上に挙げたような、かれがこの12年間行ってきた様々な不正義、それに対する異議申し立てが「反石原」なのです。
 そのうえで、わたしたちは選択しなければなりません。「反石原候補」は誰か?と。今のところ名前が挙がっている松沢、東国原、渡邉らは、いずれも石原路線を否定しておらず、「反石原候補」になりえません。
 そのなかで、共産党から無所属になって出馬を表明している小池晃は、今のところ「反石原」を表明している唯一の候補です。
http://www.koike-tochijikouho.com/
単に「反石原」と表明しているだけでなく、HPやyoutubeを見る限り、政策的にも「反石原」を掲げるに申し分ありません。いや、それどころか、今までの「反石原」対抗馬たち、鳩山邦夫、升添陽一、樋口恵子、浅野史郎と比べても、「最良」の反石原候補と呼べるのではないでしょうか?誤解ないように言っておくと、わたしは必ずしも日本共産党の支持者ではありません。たとえば領土問題など、かの党の考え方とは明確に異なる点はいくつもあります。ただし、とりあえず都知事選の政策においては、積極的に反対すべき点は今のところないように思えます。
 わたしのようなめんどくさい左翼は別にして、ふつうのサヨクあるいはリベラルの皆さんにしてみれば、より問題なく彼の政策は受け入れられるのではないかと思います。ところが、むしろそうした人ほど、小池氏の出馬には苦虫を噛み潰しているようです。何が不満なのか?かれらによれば、小池氏は当選の見込みがない、つまり、実効的な投票でないということが、小池氏の唯一の、そして決定的な問題だそうです。
 しかし、わたしにはよくわかりません。特に今回の場合、小池氏以外は石原かプチ石原しか出ていないのです。はっきりと反石原を表明している人物ではなく、プチ石原の中の石原的でない部分を必死に探して、その微小な差異において「実効的」な投票を行ったところで、それは何の意味があるのでしょうか?その人物が仮に当選したところで、何の意味があるのでしょうか?
 つねのさんは、4年前の都知事選のさいに、このように述べています。

■「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」――グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070324/1174662000
 山口二郎は、別の文章で、左派、市民派護憲派が「現実主義」を欠いていることを嘆いています*2。そして、政治の世界では意図ではなく「結果がすべて」であるという論理で、ある地方自治体選挙で独自候補を擁立して現職候補に「漁夫の利」を与えることになった共産党を非難します。スターリンによる大粛清裁判の語彙を使うとすれば、共産党はその主観的な善意に関係なく「客観的に有罪」であると言えるかもしれません。
 しかし、「現実」とは何でしょうか? 「現実主義」とはなんでしょうか? きっと山口にとっての現実は、報道ステーションでの福岡政行の政局解説のことなのでしょう*3。福岡さんが各党や派閥の議席数を反映した模型を様々に組み合わせながら見せてくれるあのエンターテインメントを見て、きっと山口先生は「共産党は単独で勝利することは絶対にない」と確信し、「でも、自公以外の勢力を全部足し算すれば、勝利できる可能性があるかもな〜」と思ったのでしょう。そしてその瞬間に、歴史が終焉しました。各党の勢力が大きく変動することはもうない。あとは、時間が止まった世界で数合わせの戯れが続くことになります。
 今や世論調査は、世論を知るためのものではなく、世論を規定するものとなりました。私たちが心理テストに職業を決めてもらうように、選挙民は世論調査の結果を見て、自分の投票行動を決めなくてはならないのです。自分の素朴な判断で誰に投票するかを決めるのは危険です。うっかり、「意図」に反して敵を利するという「結果」を招いてしまうかもしれないのですから。専門家の適切なアドバイスが必要です。山口先生に決めてもらいましょう。もし、多くの選挙民が先生の善良な生徒となれば、「泡沫候補」は実際に泡沫候補並みの票しか獲得しないことでしょう。かくして、「現実主義」が「現実」を支配します。

(単に、石原慎太郎がいなくなればいいという意味での)反石原を旗印にした投票行動の選択は、結局このような茶番でしかありません。たとえば非実在都条例を考えてみましょう。わたしは昔、反規制派であることを表明したうえで「ポルノ被害の問題も一方で考慮すべきだ」と言ったら、規制派扱いされたことがあります。もし、ある人物(Aさんとしましょう)が石原を当選させないためにかれらが都条例の改正部分撤廃を表明している小池氏ではなく、「よりまし」な規制派に投票し、その人物が当選したとします。10年後、もしかしたら店頭からエロマンガは一掃されているかもしれません。そのときAさんは「ああよかった、もしあのとき石原が勝っていれば、ネットですらマンガは読めなくなっていたはずだ」(石原と他の候補の規制論の差異はよく知りません)と言うかもしれません。しかし、先ほど紹介した基準からいえば、Aさんは正真正銘の規制派だと思います。いまいちど、つねのさんの記事から引用すると、

 キューバグアンタナモ米軍基地には、アルカイダとの関わりを疑われた数百人の人々が収容されています。彼らの多くは、裁判にかけられる予定もなく「無期限に収容」されています。また拷問が行われているという報告もあります。このようなことは、通常の法の枠内では正当化することが困難です。というわけで、アメリカではこのような収容が行われていいのかということが論争になっています。
 ジジェクによれば、ある討論番組で、次のような収容擁護論があったそうです*1。いわく、「彼ら(囚人)は爆弾が当たらなかった者たちである」。つまり、彼らは米軍の正当な軍事活動の対象であったにもかかわらず偶然に生きのびたのだから、彼らを収容することに問題はない。どんな状態であるにせよ、死ぬよりはマシなはずだ。彼らは死ぬはずの者たちであったのだから、彼らには何をしても許される、というわけです。

石原(松沢のほうが酷いという人もいます。この場合、両者を逆転させても構いません)の規制論は酷すぎるのだから、石原(松沢)が当選しなければ、どのような規制論者であっても「よりまし」な選択には違いありません。しかし、エロマンガの自由は既にそこで死亡しているのです。
 わたしは、わたしたちの正しい意志を示すこと、その意志を示すことのできる可能性があること、その一点においてのみ、選挙の価値を認めます。わたしは、Arisanさんがいう

ぼくは、東京や日本の大都市でこそ、ジェノサイドや差別に反対する明確な意志が、示されねばならないと思う。

という言葉に賛同します。こうした意志を示すこと、示すことができる可能性そのものが「現実主義」において否定されるのであれば、その「現実主義」は選挙そのものの価値を否定しているのです。
 わたしは「反石原統一候補」を今かかげることが可能だとすれば、それは小池晃以外にはありえないし、迷わず小池に一票をいれるべきだと思います。もちろん、わたしは「大同団結」をまじめに呼びかけるつもりはありません*1共産党に酷い目にあわされたひとは高齢者を中心に多数いるだろうし、そのような人は別に投票することはないと思います(ただ小池晃は無所属での出馬ですが)。かれの政策に特別反対すべき理由が無いのは、わたし自身がこの社会のマジョリティの一部だから、ということも十分ありうるでしょう。また、あなたがネオリベなら渡邊に、たけし軍団が好きなら東国原に、ファシストなら石原に、プチファシストなら松沢に投票すればいいわけで、それはあなたの自由です。しかし、もしあなたの引っ掛かりが、政策ではなく、世論であるなら――つまり、「現実主義」なるものであるなら、そんな「現実主義」は容赦なく捨て去るべきです。よりよき人物を我々が選択することではなく、数合わせゲームへの勝利こそが選挙の本質だとみなすのであれば、それこそが議会制民主主義へのシニシズムであり、議会制民主主義の死亡通告に他ならないでしょうから。
 わたしは、小池晃に投票すべき人が小池晃に投票することを呼びかけ、友人や知人に小池晃への投票を呼びかけることを呼びかけます。

和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080405/p1
 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。
 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。
 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。
 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ
(・・・)
 問題は、私が米粒ではなくて人間であるということを自覚するということではない。私は人間であって米粒ではない。私はそれを知っている。ところがそれを知らないニワトリに私は脅かされている――そういうカラクリを暴いてみても、それ自体がまた「ニワトリ」になってしまう。「メタル・ニワトリ」だ。そこで、なぜそういう存在しないニワトリに恐怖するのかということについて、経済的・心理的に分析したりすることになる。でもそれがまた「ニワトリ・キング」となってしまう。
 だから、「ニワトリの無知」の小咄から何かを学ぶのであれば、それはどこにもニワトリはいないから心配するなということであってはならない。そうではなくて、ニワトリに飲み込まれそうになってても、自分が米粒であるとしか思えなくても、あたかも人間であるかのように行動せよということである。
 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。
 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。
 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。
 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。
 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。
 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89 年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。
 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。

「人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。」
わたしもそう思います。そして投票所で名前を書くことは、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことよりも、チャウシェスクに対して革命を起すことよりも、ずっと簡単なことではないでしょうか?あたかも小池晃都知事に当選することが自明であるかのように。

*1:twitterでは皮肉でかいたけど、まあ皮肉だってわかるよね!