ころしてでもうばいとる

見出しはロマサガです。
http://d.hatena.ne.jp/repon/20080428/p7
ええと、問題にしたいことはわかるのですが、何が論点なのかがよく分かりません。
まず前提から入るべきだと思うのですが、

で、実際国会前で行動を起こしていたり、地域でビラをまいている、いわゆる「運動」する人たちは、そんなことは全然知らないか興味なく、動員されているからやっているだけ、というかなり運動体全体が末期的な状況なんですよね。それは左も学会も右も一緒です。草の根は縁故で動きます。

とはいえ、雨宮さんや湯浅さん自体が、単なる論壇の人ではなくて活動家なわけですよね。確かに今までは非正規の問題については既存の団体は冷淡でしたが、そうした活動の成果もあってか、今では連合も動いているし、もちろん社民党共産党などの政党も関心を持っている。もちろん裏の実態ではどうなっているか分りませんが、実際に活動している人たちはそこに手ごたえを感じているとするならば、

既存権益層とそれに対抗する層という古い枠組みで作られた受け皿なんですよね。

というのはあまりにもペシミスティックにすぎるのでは。
貧困はけしてロスジェネだけの問題ではなくまさに日本全体がその危機にあるのだという事実を前にして、客観的に見て明らかに不十分な社会保障体制に対して社会保障の充実を訴える言説が「古い」とされるならば、じゃあ「新しい」言説って何なの?と言いたくなります。そもそも、社会保障を歴史的な文脈の中で捉える視角や欧米や日本における貧困の実態に関して全く無知としか思えない元ネタリンク先の中の人が言っている「古い」という評価に何の意味があるのかがわかりません。それは本当に「古い」のでしょうか。
ヨーロッパを見てください。彼らはけして新しいことをやっているわけでは無いと思います。労働条件の悪化には労働組合が中心となって団結してストをする、新自由主義の浸透には反対のデモを行う。そのような「古い」行動によって、日本とは比べ物にならないほどの(誇張にあらず)再分配を行い、危機に晒されながらもなんとか福祉国家を維持しようとしています。彼らと我々の間に意識の差があるわけでは無いと思います。たとえばドイツなどで既存の正規雇用者が妥協して失業者とワークシェアリングを行い、それが日本の正規と非正規でできないのは、彼らが我々に比べて自己犠牲精神が高いからではなくて、そもそも医療・教育はタダだし年金や生活保護なども充実しているので日本の正規雇用とはいえ劣悪な労働条件に耐えている人よりも余裕があるからなのです。
もちろん福祉国家の限界というのはいくらでも指摘されているわけですし実際に危機に晒されているのですが、だとしてもヨーロッパの少なくとも半分でもいいから社会保障を充実させようとするのと、こうしたものを「古い」と切り捨てて、何か新しい「ゼロ年代の」社会を構想することと、どちらが現実的でしょうか?どちらがより広い人たちに訴えることができるでしょうか?
まあぼくは運動論とかはどうでもいいんですけど、「想像上の」プレカリアートではなくて「実際の」プレカリアートたちが、たとえば組合をつくるなどをして行い、「実際の」プレカリアートの声を聞きながら行っている「反貧困の」運動、しかも拡大を続けている運動が、それが届かない層がいることをもって、全然代弁できていない「コップの中」ということで疑問符をつけられてしまうのはちょっと困ってしまいます。そもそも、立ちあがらない人々に対して「反貧困」の運動の側が切り捨てたことはありましたっけ。
確かに雨宮処凛なんて言っても、グーグル検索で20万。水樹奈々168万、平野綾157万、堀江由衣134万、釘宮理恵が92万ですから、声優界のトップアイドルに比べても全然知られていません。ただ、そのことと、たとえばその枠組みが「既存の」それであるせいで届いていないのだ、と考えることは別だと思います。じゃあその「ゼロ年代の」言説を構築できれば支持は一気に増えるかといえばそうでもないと思いますよ。むしろ、社会保障の充実は日本のほとんどの人が恩恵を受けることになるはずですから、後期医療制度などを指摘するまでもなくもう限界に来た社会で、そこを愚直に訴えることは支持を増やしていくだろうと割と楽観していたりします。
でも届かない人がいるじゃないか、ということですよね。たとえば朝生において資本家・権力者の側には、反貧困の声は届いていませんでした。じゃあそれは「既存の」メッセージに過ぎなかったせいであって、べつのやり方のメッセージならば届いていたかといえばそうではないと思います。なぜなら、自己責任と資本主義が至上と考える「勝ち組」の人は、大多数の国民とは違って社会保障の充実は利益にならないからです。ぶっちゃけ「反貧困」の運動にとって彼らは説得すべき相手ではなくて打倒すべき敵でしかありえません。妥協?「反貧困」のメッセージは「生きさせろ!」でしょう?それすら「自己責任」「資本主義」で認めない相手に対して、妥協すべき余地がどこに残っていると?そもそも、こと「反貧困」にかんする限り、訴える側の方がマジョリティであるはずですよね。
湯浅氏は『反貧困』のあとがきでこのように書いています。長いんですけど引用すると、

誰かに自己責任を押し付け、それで何かの答えが出たような気分になるのは、もうやめよう。お金がない、財源がないなどという言い訳を真に受けるのは、もうやめよう。そんなことよりも、人間が人間らしく再生産される社会を目指すほうが、はるかに重要である。社会がそこにプライオリティ(優先順位)を設定すれば、自己責任だの財源論だのといったことは、すぐに誰も言い出せなくなる。そんな発言は、その人が人間らしい労働と暮らしの実現を軽視している証だということが明らかになるからだ。そんな人間に私たちの労働と生活を、賃金と社会保障を任せられるわけがない。そんな経営者や政治家には、まさにその人たちの自己責任において、退場願うべきである。主権は、私たちに在る。

根源的な「敵」はいないんだ、あいつは「敵」ではないんだということと、「敵」はいないんだということを混同してはいけないと思います。メッセージが伝わる伝わらない以前の問題として、「生きさせろ!」が社会において万が一通らなかった場合、生き残るために革命を起こして資本家を虐殺するしか*1無い気がするのですがいかがでしょう?

*1:だってそのままだと死ぬだけだもの