湯浅誠『反貧困』


世代間闘争だ自己責任だ言ってるバカは全員読めばいい。

p132-133
どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言うのは簡単だ。しかし、ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話になってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールになるような状態になるまでSOSを発信してこない。彼/彼女らは、よく言われるように「自助努力が足りない」のではなく、自助努力にしがみつきすぎたのだ。自助努力をしても結果が出ないことはあるのだから、過度の自助努力とそれを求める世間一般の無言の圧力がこうした結果をもたらすことは、いわば理の当然である。自己責任論の弊害は、貧困を生み出すだけでなく、貧困者当人を呪縛し、問題解決から遠ざける点にある。
その結果、<もやい>の生活相談でもっとも頻繁に活用されるのは、生活保護制度となる。本人も望んでいるわけではないし、福祉事務所に歓迎されないこともわかっている。生活保護は、誰にとっても「望ましい」選択肢とは言えない。しかし、他に方法がない。目の前にいる人に「残念だけど、もう死ぬしかないね」とは言えない以上、残るは生活保護制度の活用しかない。それを「ケシカラン」という人に対しては、だったら生活保護を使わなくても人々が生きていける社会を一緒に作りましょう、と呼びかけたい。そのためには雇用のセーフティネット社会保険セーフティネットをもっと強化する必要がある。

p88-90
先に少しだけ触れたネットカフェ暮らし7年間の34歳の男性が相談に来たのは、2007年4月だった。彼は、自ら進んで相談に来たわけではなく、人に連れられてきた。最初の30分は、彼はなかなかこちらの話に乗ってはくれなかった。何度となく「自分は今のままでいいんスよ」と繰り返していた。
(中略)
自分(引用者註:上記の「彼」)の人生を考えてみれば、誰かが何とかしれくれるなどと思えなかっただろう。そんな世の中だったとしたら、どうして今まで自分にはそれが訪れなかったのか、説明できないからだ。つまり、誰も何もしてくれない世の中なのだ……そう結論づけているように見えた。その結果が「自分は今のままでいいんスよ」という言葉である。典型的な自分自身からの排除だった。
34歳の健康な男性が、ネットカフェで暮らしていて、「今のままでいいんスよ」と言っている。これはしばしば人々の反発を買う。「現状に甘んじている」「向上心がない」「葉気がない」「根性がない」……このテーマであれば、人々はいくらでも饒舌になれるだろう。まさに自己責任論がもっとも得意とする場面である。

p65
「どんな理由があろうと、自殺はよくない」「生きていればそのうちいいことがある」と人は言う。しかし、「そのうちいいことがある」などとどうしても思えなくなったからこそ、人々は困難な自死を選択したのであり、そのことを考えなければ、たとえ何万回そのように唱えても無意味である。