健康帝国日本

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112601000936.html
内容もブコメも酷いですね。
そもそも「努力して健康を保った人にはインセンティブを」自体が健康保険の理念を崩しかねないものであることを理解しましょう。
当然、努力しているかどうかで病気になるかならないかは決まりません。いや、少しは関係あるじゃないかと言う人もいるかもしれません。でも、「少し」とはどのくらいでしょう?なにせ、男に逃げられるのまで女の自己責任という意見が出てくる世の中です。病人にちょっとでも不摂生があれば、それは「努力不足」とされかねない。では、遺伝病など生まれつき抱えている病気の場合は?なるほどそれは当人に責を求めることはできない。ではどこに行くか。もちろん親にです。出生前診断が「可能」である今、病気がある「障害」があることが分かっていてなぜ産んだ、という話になるのではないでしょうか。
人の生死が社会的コストとして認識され始めると、まさにこうした議論がまかり通ります。
社会福祉とは簡単に言えば、「ある人が病気になった場合それはその人の不幸であり、したがって社会はその不幸をなるべく軽減しなければならない」であるべきですが、麻生某やその追随者たちはこれを反転させています。すなわち「ある人が病気になった場合それは(その人にコストをかけなければいけない)社会の不幸であり、したがって個人は社会の不幸をなるべく軽減しなければならない(健康に生きる義務!)」。
もちろん、彼らは病人を見捨てるべきと言いません。しかし、一方で彼らは病人にたいして社会的な支援を受けることにたいするある種の「謙虚さ」を求めています。麻生某は給付金問題にたいして「プライドが高い人は受け取らない」とほざいたそうですが、彼の社会政策に対する認識とはまさにこのようなものなのでしょう。つまり、なんらかの支援を国家・社会から受けることは恥ずべきことであるのです。
でも、ぼくに言わせればこんな認識を持ってることのほうが恥ずかしいし、こんな人間が自分の国の首相をやってることはもっと恥ずかしいです。たとえば次のような文章のような視点が、まったくこの男には欠けているといわざるをえません。
■「配慮の平等」という視点
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080719/1216400819
ところで麻生某はキリスト教徒らしいのですが、彼のキリスト教的倫理はどうなっているんでしょう。たとえば聖書は全部読んでると思うのですが、「放蕩息子の話」とかは彼の中でどう解釈されているのか。
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/son.htm
「おれは健康をがんばったのに、なんで不摂生な病人を養わなければいけないのか」というのは、「わたしは何年も、お父さんに仕えてきました。言いつけに背いたことは一度もありません」と弟をねたむ兄とそっくり重なっていると思うのですが、誰も説教してくれなかったのかな。
健康はその人自身のためのものなのに、「社会に負担をかけないため」という目的にすりかえられてしまうこと、病気はその人自身がいちばん苦しいのに、「社会の負担」の苦しさをも内面化させられてしまうこと、そのようなコントロールによって社会が人を生かしていくこと、これはまさに「生-権力」としか言いようが無い。「社会のために」「個人の健康を」「社会がコントロール(健康であることにインセンティブを与えるなど)」する。国籍法の問題で日本人全員のDNA検査をなどと軽々しく言う人も多くて、まあファシズム社会はすぐそこまで近づいているということなのかもしれません。
(参考)
■「選択の自由」が排除する人々
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080302/p1