ルールから零れ落ちるもの、あるいは配慮

機会の平等は、機会が完全に均等に保障されるルールが成立した時点で「終わり」です。まあ、機会の均等を維持していく努力は必要かもしれませんが、基本的にはルール成立の時点で敵対関係は解消され、全員が等しいルールのもとで「競争」していくことになります。
でも、完全なルールは実現可能なんでしょうか?たとえば人間には能力の格差があります。いかなるルールを選ぶかによって有利な能力、不利な能力というものが存在してしまいます。すべての人にとって「公正」と呼べるルールを構築することは、ほぼ不可能だといってよいでしょう。適切なルールさえ整えてやれば市場主義が結局は一番公正なのだと言う人もいますが、それだってカッコつきの「公正」にすぎません。
もちろん、ある種の政治的リベラリズムのように、完全なルールというものを目指す取り組みはありうると思います。ただ、やはりぼくはそうしたものは実現できないか、どこかに欺瞞が含まれるものにならざるを得ないというところから出発します。その不可能性と向き合うことのひとつが「結果」を見ることなんです。
たとえば、機会均等でも「最低限の」生は保証されるといいます。確かに、機会を均等にするためにはある程度の生活の保障がなければ不可能でしょう。しかし、それは結局ゲームに参加させるための手段であるか、あるいはゲームに参加できないものに対する「施し」なのです。つまり、「不健全」な生を「健全」なものにするか、あるいはどうしても「不健全」な生であれば、慈悲によってそれを生かす。そして、それらの多くは、たとえば「リソース」という概念によって増えたり減ったりされます。
しかし、まさにルールの庇護ではなく、ルールそれ自体が「健全」な生と「不健全」な生と分けているのであれば、上のような考え方そのものが欺瞞となります。
■「非健常者として、健常を問う」
http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20081031/1225387408
hituzinosanpoさんは、「健常者」とは配慮が不要な人で「非健常者」とは配慮が必要な人とみなされているけどそうではなくて、「健常者」というのは社会的にさまざまな配慮がなされているので障害を感じなくてすむ人で、「非健常者」はその配慮から除外されている人ではないかと主張します。

 このように、多数派にだけ配慮して 社会が つくられているために、「自分の からだが 空気のように 感じられる」ひとたちが 存在します。それは、たくさんの配慮によって なりたっているのです。
 そして、あってしかるべき、おなじく「たくさんの配慮」が ないがしろにされているために、自分の からだを 意識させられる ひとたちが 存在するのです。
(・・・)
 さて、それでは 障害学とは いったい なんなのでしょうか。障害学の キーワードを ひとつ あげるとするなら、やはり、「障害の社会モデル」でしょう。
 たとえば、わたしは 障害の社会モデルという 視点を、「漢字という障害」という論文に まとめています。
* あべ・やすし 2006 「漢字という障害」ましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別』三元社。
 この論文では、障害の社会モデルを つぎのように 解説してあります。

 漢字をよんだり、かいたりできないのは「そのひとが障害者であるから、無能力であるから」とみなすのが医療モデルである。一方社会モデルは、漢字こそが障害(社会的障壁)であり、漢字が「文字をよみかきできなくさせている」のだとみなす。
(158ページ)

 もちろん、日本語の文字や よみかきを めぐる問題は、これほど単純な はなしでは ありません。それは、わたしが これまで 何度も 論じてきたとおりです(論文一覧)
 ですが、障害の社会モデルの説明としては、これで じゅうぶんではないかと おもいます。
 障害学とは、障害者が その中心になって、社会の ありかたを といなおすものです。これまで障害者運動が うったえてきたものを、学問の世界に もちこみ、従来の学問を ゆるがし、そして社会制度を かえていくためのものです。
 そうした性格を もつ 障害学を、興味ぶかい議論として「消費」するだけで おわらせてしまってはなりません。だれもが、障害学を つむぎだしていく一員になる必要が あります。それは、おなじ社会を いきているものとして、そして、たくさんの配慮を ずっと要求しつづけ、そして現に配慮されつづけている 側としての 宿題なのでは ないでしょうか。なにも、だいそれたことを しなくても いいでしょう。
 「わたしが健常である」とは、どういうことなのかを、すこしでも みつめてみること。いろいろな ひとたちが 存在することを あたりまえとうけとめ、そして、だれもが くらしやすい社会を のぞむこと。そして、わすれられてきた配慮をきちんと提供していくこと。それぞれが、それぞれの位置から、やれることが あるでしょう。
 「健常者なんて存在しない」。あるいは、「障害者など どこにも いない」。それは重要な といかけであるし、たいせつな視点です。ですが、それが たんなる スローガンに おわらないようにするためには、実質的に、社会のありかたを かえる必要が あるのです。

障害者の問題だけでなくて、まさにルールに配慮されていない人々が現実に苦しんでいるとき、なすべき考察はその配慮はルールに適しているかどうか検討することではなくて、いかにして配慮するかです。「全体最適」としてこの社会は配慮が行き届いている社会だという主張は、配慮されてない側にとってなんら意味を持ち得ません。それはヴォルテールが批判したところの「最善説」の劣化したヴァージョンに過ぎないのです。
■努力教とハゲタカ教と最善説
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080112/p1
重要なのは、「実質的に、社会のありかたを かえる」ことです。そのためには、ルールそのものを問いなおすべきです。たとえば、ある人が別の人の100倍のお金を稼ぐとはどういうことか、ということを、ルールを超えて考える。そうすることで初めて、お金が無くても幸せになれる社会というものも考察しうるのだと思います(現状のルールにおいて、お金なくても幸せになれる「選択」あるよというのは、「上見て暮らすな下見て暮らせ」並の欺瞞です)。
もし、あなたがそれを望まないならば?それはつまり、あなたは配慮されていない人々と「敵対」するということです。私学助成問題で、ハシシタ知事と女子高生の間には「敵対」がありました。卑劣なのは、ハシシタ知事が「あなたが政治家になればよい」と言うことで女子高生を「競争相手」とし、その「敵対」をあたかも存在しないものにしようとしたことです。「競争関係」なら、ルールに即している限り、彼自身の「政治的」責を問われることは無い。そんなの関係ないといえます。でも、私学助成を廃止する知事と、廃止をとめようとする(廃止したら甚大な不利益をこうむる)女子高生という間柄においては、はっきりと「敵対関係」がありました。「敵対関係」においては、私たちすべてが当事者です。
だとすれば、われわれは結果平等を支持しようとしまいと、結果を見ざるを得ないということになります。そして、「だれもが くらしやすい社会を のぞむこと。そして、わすれられてきた配慮をきちんと提供していくこと」を選択するならば、それは、それがどのようなものであろうと結果平等的な発想をしていることになるのです。ハコニワを構築するという意味ではなく、まさに現実を見るという意味でです。