「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと

東浩紀カール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。
例によって速記者が正しければだが、

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1
カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた
何を言っているか
政治は友と敵を分けることだ
友と敵を分けることが政治
誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺
精神的な意味でも隠喩でもない

「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。

政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。
(『政治的なものの概念』p14)

カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的な意味で解釈すべきであるような、現実性と現実的可能性である。
 つまり、「友・敵」対立とは現実に、または現実的可能性として既に存在しているものであって、我々はそれにしたがって結束するかどうかを決定しうるが、「友・敵」の分割そのものは決定しえない。シュミットが危惧していたのは、現実に存在している敵対性・諸対立が、自由主義・議会制民主主義などによって「道徳」や「経済」に回収されてしまうことだった。

結局はすべて、ただ倫理的・経済の両極をめぐるだけの、このような(自由主義的な)定義や論理構成をもってしては、国家・政治を根絶することはできず、世界を非政治化することもできはしない。(p101)

自由主義は、「非・政治化」するから問題なのではなく、そもそも「非・政治化」できないのである。「政治」はいずれにせよあるにも関わらず、それがあたかも無いように行われることが問題なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1
自由主義は本質的に非政治的なイデオロギー
何かを批判するときには政治的なイデオロギーになるからこそ、
19世紀20世紀にかけて政治的役割を担ってきた
発想自体はもともと政治に敵対している
友敵を作らないのが自由主義
自由主義で国家を解体していったら人間が人間じゃなくなる

そんなら自由主義ポストモダニズムにつくべきだ、と僕は考える
ある種のヘタレ
一方では、私たちの社会はこうあるべきだと言いながら、
他方では、しかしこうあるべきだということを他人に押し付けない
そういうへたれた空間世界でしかリベラリズムは存在できない

東浩紀は言っているが、自由主義のような非政治的な立場につこうがつくまいが対立は存在するし、したがってそれは「友・敵」の区別において「政治」と認識しなければならないのだといったのがシュミットである。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1
コジェーヴの文章とすごく似ている
ポスト歴史の動物たちの文章に似ている

政治とか国家とか世界全体で一つの国家になることはありえない
その時には人間は友と敵の判断をなくしてしまった
正しいとか儲かるという判断しかすることがなくなり、
倒すとか政治的な意識が消滅
倒すか倒されるか、物理的存在論的になくなるかなくならないか
そういう関係性にあるのが政治
世の中から国家、政治がなくなるなら
経済的、倫理的名関係の中でぐるぐるまったりと生きていくことになる

人類は政治的概念ではなく、またいかなる政治的単位・状況も、人類には対応しえないのである。(・・・)自然法的および自由主義的・個人主義的教義における人類とは、普遍的な、つまり地上の全人類を包括する、社会的理想構造なのであって、闘争の現実的可能性が排除され、いかなる友・敵結束も不可能になったときにはじめて、現実の存在となるような個々人相互の関係の体系なのである。そのとき、この普遍的社会の内部には、政治的単位としてのいかなる国民も、さらには闘争するいかなる階級、敵対するいかなる集団も、もはや存在しないであろう。(p64)

ところで闘争の現実的可能性は人間が決定しうるとシュミットはいっていない。「闘争の現実的可能性が排除され、いかなる友・敵結束も不可能になったとき」というのは「人間は友と敵の判断をなくしてしまった」のとはまったく違う。闘争の現実的可能性があれば人間は友・敵結束するのであって、逆になければ結束はできない。社会的理想構造たる「人類」によって、闘争の現実的可能性が無くなるのではなく、闘争の現実的可能性がなくなったときにのみ「人類」は現実の存在となるのである。
 つまり、人間が友や敵の判断することをやめれば政治はなくなるということをシュミットはまったく言っていないのだ。「友・敵」の区別を人間が「正しく」行わなくても、現実に存在する諸対立にしたがって友・敵結束は行われるのであって、「経済的、倫理的名関係の中でぐるぐるまったり」などはありえない。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1
政治のなくなった世界は人間が人間である限り来るわけはないと思っている
でも僕は素朴に良いんじゃないかと思う

「良いんじゃないか」と言われても、政治は「良いんじゃないか」でなくなりようがないのだから「良いんじゃないか」と言うことで政治がない世界は来ないのだ。
 確かにシュミットは国民国家システムの先に有るシステムを考案していた。いわゆる「グロース・ラウム」理論であるが、「グロース・ラウム」が国家の延長線上にあるか、それともポスト国家的なものかは議論がある。しかしいずれにせよそれは歴史的なものの延長(「具体的秩序思考」)によって構築されるのであって、したがって「政治」は否定されておらず*1、また「歴史の終わり」を前提にしていたコジェーヴとはまったく異なるのである。
 ところで、このような誤読―友・敵区別は「ある」ものではなく「する」ものであるという誤読―は、単なる偶然でなく、おそらく東浩紀や、彼のような思考をする人々が本質的に持つ誤謬に根ざしていると考える。つまり、彼らにとって「政治」とは「ある」ものではなく「する」ものなのだ。いわば彼らは、何かどこかに「政治」という場所があり、そこに近づかないようにすることで「非政治的」になれると考えているようだ。あらゆる「政治的」対立ないし「政治的」(に見える)態度は、その人間が「政治的」になることによって生じるのであって、「非・政治的」に振舞ってさえいれば「政治的」対立は存在しないか、「非・政治的手段」(たとえば工学!)によって解消されると信じているのである。
 村上春樹の受賞問題や立命館の写真撤去問題もこれと同根である。「はてサ」を批判する人たちは、「はてサ」が「政治」に近づきたくない人たちを無理やり「政治」に近づけようとしていると見ている。しかし、いわゆる「はてサ」―id:mojimojiさんやid:font-daさんをここでは含めておく―が前提にしているのは、「はてサ」あるいは「非・政治的」な人々がそう望もうと望むまいと、状況は既に「政治的」であるということである。それはカール・シュミットが言ったことでもあるし、シャンタル・ムフ*2も『政治的なものの再興』あるいは『カール・シュミットの挑戦』で議論しようとしていたことであった。

■敵対関係について
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080512/p1
シャンタル・ムフ自由主義者ながらシュミットの議論を受け止めつつ、ハーバーマスの「討議民主主義」のような自由主義的な民主主義を批判します*1。

実際今日、人道主義というレトリックは、政治的な力関係に取って代わりつつある。そして西洋自由主義は、共産主義の衰退とともに、敵対関係(antagonism)が根絶されたと考える。「再帰的な近代」(reflexive modernity)の段階に達するとき、倫理は政治に取って代わりうる。友と敵という政治の伝統的な形態が、「旧来の友・敵関係を超えた同一性」の発展によって、終焉を迎えつつあると言われる。国際的に行使されうる民主主義の「審議的」あるいは「対話的」形態の諸条件がすでに整ったと主張されるのである。しかし残念なことに、「政治的なもの」に固有の闘争が根絶できないこと、また政治的なものが法の「外部者」であること、こういったシュミットの主張は、これら全てが希望的観測にすぎないことを暴露するのである。
シャンタル・ムフ編『カール・シュミットの挑戦』序章「シュミットの挑戦」)

ムフは、(それは必ず達成しうる)最終的な合意を目指して討議を続けていくという民主社会ではなくて、けして合意しえない複数の集団が存在することを認めることこそ、民主社会の大前提だというのです。自由主義が「敵対関係」を排除してきたことによって何が起こったでしょうか。テロリズムや暴動―もちろん2005年パリ暴動が参照されるべきです―つまり、自由主義者たちが「非合理的なもの」の突発的現象と呼んできたものの表出であって、これはスラヴォイ・ジジェクが主張する「ポスト政治的な」自由主義的寛容の行き詰まりなのです。

「政治的」であることをのぞまなくても―「政治的」闘争を不可視化し続けていても「政治的なもの」と距離を取ることはできないとしても、だからといってわれわれはいわゆる政治的行動を取ることを義務づけられはしない。しかし、我々の営み、「政治的」状況を前提としたもろもろの営みは、その「政治的」状況と関わりあっているひとつのあり方なのである*3サルトルは、人間とは状況に拘束された存在だととらえた。名著『図解雑学サルトル』から引用する。

アンガージュマンとは何か?
 サルトルは、人間が自由な存在である、というが、同時に、人間は誰しも自分の生きる時代の状況(→p106)に拘束されている、とも言う。
 たとえば、戦争の時代に生きる人間は、戦争と無関係に生きることはできない。安全な場所に逃げて戦争と無縁な生活を送る人もいるかもしれない。しかし、そういう人でも、戦争があったからこそ「戦争から逃げる」という選択がありえたのであり、やはり戦争という状況と無縁ではない。サルトルは「戦争から逃げる」ということも「戦争に関わる」一つのあり方だ、と言うのである。
 そして、サルトルが言うアンガージュマンとは、人間は時代の状況から逃れられないという事実を直観し、その状況の中でどのように行動するかを能動的に選択していく、ということなのである。したがってそれは、時代的状況とめいっぱい「関わって」生きること、と言ってもいい。そして、戦後のサルトルの生き方は、まさにそうしたものだったと言える。
永野潤『図解雑学サルトル』p130)

状況の「外」にいるか「内」にいるかは既に問題にされていない。人間は状況から逃れられない。「はてサ」が「観客席はない」と言うとき、たいていの場合は、「観客席から降りて闘技場に来い」という意味ではなく、「あのー、それ普通に闘技場の中なんですけど*4」という意味で使っていると考えてもらってよい*5。たとえば、村上春樹が問われているのは、政治的にふるまうか非・政治的にふるまうかでは無く、イスラエルによるパレスチナへの空爆という具体的状況にどう関わるかというあり方の問題である。サヨクはよく「政治的なもの」の忌避を批判するが、それは「政治的なもの」に寄ってこないことを批判しているのではなく―なぜならば、どのような態度を取ろうがすでに「政治的」なのだから―望もうが望むまいが現に存在する「政治的」状況にたいする「関わり方」のあり方として、「政治的なもの」を忌避するという態度を批判しているのである。おそらく、このようなことを前提として「はてサ」の文章を読んでいけば、致命的な誤読は生じないだろう……と思いたい。<参考文献>

*1:たとえば「グロース・ラウム」同士の対立が想定されているとされる

*2:東は彼女をも誤読している。ムフは「人間は必ず公的な敵を作るんだ」(http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1)とは言っていない。ムフは、「政治」を認識しない、たとえばロールズなどのような「敵対性」を認識しない自由主義は失敗すると批判した。「敵対性」は「つくる」ものなどではなく、前提として解消できない「ある」ものなのである。「政治」がreturnするのではなくて―それは初めから存在し続けている―、「政治的なもの」というシュミット的な理論がreturnするのである。

*3:「自由」だ!!!

*4:だから、あなたのそのような振る舞いは当然、中の人の振る舞いとして判断されますよ。ていうかしますよ。

*5:違う意味で使っている人がいたらごめんなさい。