生政治/ホモ・サケル/人道的介入

近代的な「生-権力」は人間がまさに可死的なものであることを出発点とする。そのため、権力は「生きるままにさせておく」または「死なせる」ものから、「生きさせる」または「死の中へ廃棄する」ものへと変容するのである。フーコーにおいて前者と後者の権力は区別されたものであったが、アガンベンはこの両者が一致する現代的な全体主義国家の分析においては、この区別が問題化されると指摘する。

フーコーが1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義でこの問いに与えている答えはよく知られている。すなわち、人種差別とは、生-権力が人類という生物的な連続体のうちに区切りを刻みこむことを可能にし、そうすることによって「生かす」システムのうちに戦争の原理をもちこむものにほかならないというのである。(p111)*1

この生の連続体において、生の政治と死の政治は無媒介に一致するというのである。生政治は、この区切りにおいてしだいに領域を分離していき、その限界がナチスの生政治においては<回教徒>であった。

囚人が回教徒となる瞬間に、人種差別的な生政治は、いわば人権を越えていって、もはや区切りを定めることのできない閾に入りこむ。ここにいたって、国民と住民のあいだの揺れ動くきずなは、ついに粉々になり、定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態のようなものが浮かび上がるのをわたしたちは目にする。(p112)

ところで、「生-権力」の誕生には医療あるいは医療ポリツァイの発展が大きく関わっていることは今更指摘するまでもないが、たとえばナチスの生政治は医療あるいは医療ポリツァイの産物であると言うと、多くの反発が寄せられるだろう。ナチスの思想はそれらを曲解してつくられた産物にすぎないと。
しかし、本当にそうなのだろうか?ナチスの、生を連続体として区切ることによって<回教徒>をつくりだす生政治が、実は近代医療の本質に関わっているとしたら?
近代西洋医療は、日本で脳死問題が話題となるはるか200年前に、「早すぎる埋葬」という現象に対処することで、すでに死は出来事ではなくプロセスであると認識していた。ただ、200年前と今日で異なるのは、

それは200年前の医学が死の宣告を(全身の)腐乱まで可能なかぎり遅らせようとしたのとは全く逆に、今日の医学はこれを可能な限り早めようとしている(p52)*2

医療におけるトリアージが、いくら技巧をこらせようと*3、生と死の境界をプロセス化するという事実はくつがえせない。その連続体の中で、生の政治と死の政治が一致しているのである。つまり「生きさせる」権力と主体的な行為としての「死の中へ廃棄する」権力であり、どちらが主でどちらが従であると言うことは出来ない。
いったい、トリアージされる人々とは何だろうか。彼らはまだ「生きている」が、死のプロセスの中に置かれている。それはアガンベンがいうところの「定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態」に他ならない。彼らはただ「生きているのみ」に切り詰められた人間である。アガンベンはそれをホモ・サケル<聖なる人間>と呼ぶ。「生きているのみ」というのはつまり「死んではいない」ということで、レヴィナスの言葉で言えばそれは「非-人間」であり、過剰な剰余によって特徴付けられている。ゆえに<回教徒>はホモ・サケルとして姿をあらわすのだ。
さて、問題にしなければいけないのは
http://tinyurl.com/66hqyx
である。緊急時である理屈は関係無いの大合唱。これは何を意味するのだろうか。
もちろん、物資輸送は自衛隊である必然性は無い。自衛隊派遣に単なる人道問題以上の政治的な含みがあると考えるのはごく当然であろう。にも関わらず、そしてそもそも援助自体に反対してないにも関わらず、少しでも自衛隊の派遣という事態を問題化した瞬間、とにかく人道問題なんだ教条主義だと声高に批判される理由は?
ジジェクは、具体的にはユーゴ紛争への「人道介入」などを想起しつつ、次のように述べる

それならば、政治的共同体から除外され、<命あるのみ>のホモ・サケルの権利に引き下げられた<人権>はどうなるのか。非-人間として扱われる、まさに権利のない者の権利となり、役立たなくなったときは>ジャック・ランシエール〔フランスの哲学者・政治学者。1940-〕が重要な弁証法的逆転を提案している。「……用がなくなれば、(…)海外へ送られる。(…)このような過程の結果として<人権>は権利を持たず、残酷な抑圧や生存条件に耐えることを強いられた、剥き出しの人間の権利になる。人道的権利として、それを行使することのできない、権利を絶対的に否定された被害者の権利となるのだ。それでも、無効ではない。政治的な名や政治的な場所が全く空虚となることはなく、誰かまたは何かによって埋められる……もし残酷な抑圧に苦しむ者たちが最終手段である<人権>を行使できないなら、別の者がそれを継承し、彼らの代わりに行使する必要がある。これこそが、犠牲となっている住民を助ける想定で『人道的干渉の権利』と呼ばれ、多くの場合は人道的組織の勧告に反して特定の国々が我が物にしている権利だ。『人道的干渉の権利』とは、一種の『差出人への返送』だといえるかもしれない。不要品として権利を持たざる者へ送られた権利が、差出人へ送り返されるのだから」(p165-166)
(…)
さらに、ランシエールが指摘する通り、イグナティエフが説くようなリベラル派の人道主義は、政治的関心を除くという点で、予想外なことにフーコーアガンベンがとる<過激な>姿勢と合致する。<生政治>こそ西洋思想が行き着く先だというフーコー/アガンベン的観念は、一種の<目的論的な罠>にはまってしまう。強制収容所が「目的論的運命に思えてしまうのだ。我々一人ひとりがキャンプにいる難民の立場になる。民主主義と全体主義との差異は薄まり、政治的な行いは全て生政治的な罠にかかっていることが明白となる」。(p167)*4

災害救助への自衛隊派遣と、他国への人道的軍事介入が地続きであるのは、今までの議論を踏まえれば明らかである。今回の場合、中国政府の要請ということだから、それも地震直後から検討されてきたということだから、これは日本政府と中国政府の政治的共謀が働いていると誰でも思いつくだろう。しかしわれわれは「生政治的な罠」にかかることで、そこにある大きな問題性を見落としてしまう。9.11以降の、「緊急事態」を言い訳にした政治的行為である「対テロ戦争」に左派が一貫して反対の立場を取ってきたとするなら、当然今回の「生政治」の発露にも疑念を呈するべきなのである。その意味において、社民党のスタンスは正しい。
それでは、われわれはいかなる態度を取るべきか。上の引用においてジジェクが、フーコーアガンベンの態度を「一種の<目的論的な罠>」であると指摘していることは重要である。彼が支持するのはバリバールなどの説である。

バリバール等の論述で展開される考察。近代化が新たな自由の分野を切り開くと同時に新たな危険も出現し、最終的な結果の目的論的保証などないまま、何でも起こりうる戦いの決着はついていない。(p160)

常野さんは言う。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1のコメント欄
けれども、「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。「全体や組織から見た最適」は特定の政治的位置においてのみありうるのであって、切り捨てられる側がそれに屈服すべきいわれはありません。

もし生政治が「政治的なもの」のを排除することで権力を行使しようとするなら、われわれは全体は敵対性によって構成されていると言うことで「政治的なもの」の存在を明示させる必要がある。これは「ビッグブラザー」の創出ではない。そうではなくて社会における非政治的空間だとみなされていたものの間にある権力関係・政治的関係を丁寧に見ながら議論を進めていくということなのであり、むしろそれだけが「生政治的な罠」に陥らない唯一の道なのではないだろうか。
(29日朝追記)
http://tinyurl.com/4kbmkn
延期されたらしい。というか民間機のほうがたくさん運べるというなら、やはり自衛隊派遣は別の政治的な目的があったのだろう。

*1:アウシュヴィッツの残り物―アルシーヴと証人』(月曜社)

*2:市野川容孝『身体/生命』(岩波書店)

*3:もちろん、そこにある現場の誠実さに対しては敬意を払う

*4:『人権と国家』(集英社新書)