「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127
今は道徳の時間です。あなたは小学校の教師です。道徳の時間はテレビ見せてればいいだけですからラクなものです。今日のテーマは「かわいそうなぞう」。舞台は戦中の日本。空襲が激しくなった大都市で、参謀本部は動物園の動物達を殺すことを決断するのです。当然飼育員は反対します。しかし軍は「オリが壊れて猛獣が暴れてもいいのか!」といいます。それ以前に軍に逆らえるはずがありません。泣く泣く飼育員は動物達を殺すことを決断します。ところが、ぞうのハナコだけは毒の入ったエサを食べません。飼育員は、エサを与えないで餓死させるようにしました。ハナコは、弱った体で芸を見せます。芸を見せればエサがもらえると思っているのです。感動の名場面!女の子の一部は泣いています。後ろでハナクソほじっている奴は無視です。モンハンやっている奴を発見したら、取り上げるかもしくはまざりましょう。さて、そのようなハナコの努力も空しく、ある日飼育員がオリを覗いたら、ハナコは死んでいたのでした。
物語は、現在の楽しげな動物園の様子を移してエンディング。あなたはテレビのスイッチを消します。そのとき、いちばん後ろで拍手が起こります。そうです、あれは我らが経営学者様です。「すばらしい!参謀本部も飼育員もトリアージを理解している!かわいそうと言うだけでは何も解決しない!」
さてあなたはその後、彼を教壇まで招いて、うやうやしくトリアージなるものについての講義をお願いするべきでしょうか。おそらくあなたがするべき最善の行動は、ぽかんとしている子供たちを横目に、丁重に経営学者様を教室から追い出すことでしょう。なにやらホンネだかネンネだかおっしゃっているようですが、我々にはあまり関係が無いことなので無視してしまって結構です。
というわけで、何か書こうと思ったら常野さんにhttp://d.hatena.ne.jp/toled/20080523/p1全部言われてしまったので、くやしいのでこのような寓話をつくってみた次第です。
さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。問題は「適切な配分」とは何かです。

資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる

経営学者様はこれが肝心だといいます。例として彼は四川大地震をあげました。ぼくもひとつ適切な例を知っています。ホロコーストです。

資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民族の生存)な最適配分(アーリア民族への配分、障害者やユダヤ人の切り捨て=虐殺)を促し、戦略性(ガス室)やリーダーシップ(総統の独裁)や組織内の規範意識(ハイル・ヒトラー)も意思決定(最終的解決)も価値判断(アーリア民族至上主義)もそこから始まる

これこそ経営学的には素晴らしい組織です。ユダヤ人がかわいそう?そんなこと言ってたら(最終的)解決しませんよ!偉大なるアーリア民族が貧窮してもいいんですか?というわけで、経営学の理想はナチス・ドイツだったのでした。
いやだって、どう見ても上のって全体主義理論じゃん!
トリアージという発想がもともと野戦病院発、いかに効率的に人を前線に再投入するか、つまりいかに効率的に人を殺していくか、という考えから出てきたものです。われわれはそれがいかに人を助けるかという救急救命の思想へと変容していったかという、歴史社会学的な観点を持つべきです。この点で今現在、四川省で、あるいはかつて福知山線の事故で救急救命にあたった医療関係者にたいしては、当然敬意が払われるべきです。しかし、われわれは同時に、このトリアージという概念が戦争における技術的価値観から生じたものであり、トリアージはけしてその矛盾から逃れることは出来ないということは忘れてはなりません。なぜならば、トリアージがいったん、たとえば我らが経営学者様の手にかかって、救急救命の手を離れ一般的に通用する理論としてみなされたとき、上のような全体主義思想が復活するのです。
「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。たくさんの兵隊を連れて行進する王様にたいして、片やもう一方の経営学者様は彼女の単位を左右します。童話の王様は恥ずかしくなって逃げ出しますが、現代の王様は一味違います。「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。
さて、「かわいそうなぞう」は何故「かわいそう」なのでしょうか。ぞうのハナコは、人間の安全を取るか、動物の命を取るか、という「苦渋の」合理的決断に殉じたのではありません。戦争、日本軍、あるいは「動物園」という形態……さまざまな人間社会の欺瞞によって殺されたのです。つまり、ハナコは合理性という王冠を被った裸の王様に殺されたのです。
それでも、このような欺瞞こそが人間社会なのであって批判は青臭いというなら、それはそれで構いません。ただしそのとき、我々はアウシュビッツを批判する視座を失うわけですが。