「妖怪どっちもどっち」の誕生

http://tinyurl.com/69j336
ここだけではありませんが、「被害者叩きをしている人間を叩いている人間もまた被害者を愚弄しているのだ論法」こと妖怪どっちもどっち*1が発生しています。
沖縄の米兵レイプ事件のときも同じような展開になりました。確かに今回の場合、「死ね」という言葉を使うことが果たして適切だったのか議論する余地はあるでしょうが、タイトルのような論法によって結局全部うやむやにしてしまう方向性に向かうことについてははっきりノーと言っておきます。
さて、「被害者叩きをしている人間を叩いている人間もまた被害者を愚弄しているのだ論法」的妖怪どっちもどっちは、今回のように―これはある意味で逆説的ですが―被害者に落ち度がほとんど見当たらないとき、によく出現します。
今回の場合、伊藤氏を「自己責任」として非難した人間に批判が集中しました。そして批判自体はまったくもって正当であったのです。伊藤氏の活動を考えると、その死を「自己責任」と非難するのはあまりにも愚劣な作法でした。ところが、ここで妖怪どっちもどっちは出現します。妖怪どっちもどっちは、伊藤氏に落ち度は無い(少なくとも落ち度を追求するべきではない)ことは認めます。そして、それを逆手にとってこう言うのです。
「なるほど、確かに伊藤氏の活動は敬意に値し、その死を愚弄するのは卑劣である。しかし、よく考えてもらいたい。伊藤氏が望んでいたこととは一体なんだったであろうか?」
米兵レイプ事件のときは、こうでした
「なるほど、確かに少女にも自己責任があるというのはセカンドレイプも甚だしい。しかし、よく考えてもらいたい。今、少女が一番願っていることは、そっとしておいてほしいということではなかろうか?」
被害者は悪くないということを主張すれば主張するほど、妖怪どっちもどっちはますます力強くなるのです。
ここで、アフガン問題やイラク問題において、ある妖怪どっちもどっちのとる行動を考えてみましょう。彼は「被害者」を探します。しかし、彼が求めるのは「タリバン支配はごめんだ。アメリカに掃討してもらいたい」という被害者ではなく、「アメリカはごめんだ。タリバン支配のほうがましだった」という被害者でもありません。「アメリカもタリバンも関係無い。ただ静かに暮らしたい」という被害者です。
この3つは、ともにありうる「被害者」の考え方です。しかし、我々は前二つに比べて最後の考え方を、もっとも「純粋な」被害者の意見として特権化してしまいがちです。もちろん、考え方の内容自体は理解できる、生活者としてごく自然なものでしょう。しかし、この考え方を持つ被害者が区別され、「無垢な被害者」として表象されたとき、何が起こるでしょうか。
もちろん、アフガンにしろイラクにしろ、戦争は政治によって引き起こされ、従って被害者は政治の犠牲者であるか、あるいは政治の敗者です。ところが、いったん「無垢な被害者」が前景化してしまうと政治は後景化し、「被害者」の問題は「人道」の問題となります。政治的対立という本質的問題が顧みられず、「被害者」の救出が緊急的課題となるのです*2
ここで、妖怪どっちもどっちは「被害者」のための緊急的課題として治安回復を主張し、人道を旗印とした武力介入を提案するのです。この典型的な事例として、NATOコソボ空爆がありました。武力介入という極めて政治的な行為が、非-政治的な緊急的措置として受容されてしまうのです。
http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080621
パレスチナにおける闘争について考えてみましょう。妖怪どっちもどっちは、たとえこの記事に書かれているような数字の非対称性を見ても、けしてその立場を変えることはないでしょう。「人数は関係無い。イスラエル人にしろパレスチナ人にしろ、『無垢な被害者』を出してはいけない。闘争はやめるべきだ」しかし、この状況で闘争が終了するということは、イスラエルの圧制に加担するということに他ならないわけです。
妖怪どっちもどっちは、けして特定の政治傾向を持った人にのみ現れるわけではありません。我々全ての中に潜んでいるのです。たとえば、メディアの発達は様々な紛争地域の生々しい写真や映像を我々に伝えます。そこに写されている被害者のことを考えてください。我々は彼らの政治傾向は知りません。彼はフセインを支持していたかもしれないし、アルカイダに家を貸していたかもしれません。しかし、無意識に我々は、彼らを「無垢な」非-政治的被害者と見てしまっていないでしょうか?そうであるとすれば、それが妖怪どっちもどっちです。自衛隊が世界の世界各地の「人道的」活動に加担している以上、政治的な被害者は我々も当事者です。しかし被害者が非-政治的であれば、我々は責任を免れるように思えてしまうのです。
必要なのは、耐えざる妖怪どっちもどっちとの戦いです。「無垢な被害者」の表象に錯覚することなく、「それは本当にどっちもどっちなのか?」と問い直すことです。そのときに、後景化していた政治の問題がふたたび前景化してくるのです。我々の誰もが観客ではありえない政治が。

*1:http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080621

*2:非-政治的な「人道」介入は果たしてありえるでしょうか?たとえばペシャワール会は、アメリカの介入に対して極めて政治的なコメントを何度も出しています。