「要は勇気が無いんでしょ?」からはじまる自由の行使

http://anond.hatelabo.jp/20080816045217
http://d.hatena.ne.jp/asami81/20080821/masuda
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080822/1219377408
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080823/1219462148
コミュニケーションにはルールがあります。ですが、ルールから外れた行為もコミュニケーションなのです。ただ、ルールから外れたコミュニケーションは、そのルールが成立している社会においてしばしば行為者を不利にします。
ところで、ルールがあるということと、そのルールが「正しい」ということは別です。この増田は別に悪いことをしているわけじゃないじゃないですか。ただ、ルールに外れた行為をしただけです。行為としては、年収や学歴で人を差別したり馬鹿にしたりするほうがよほど悪いでしょう?にも関わらず、「激怒」されているのは増田のほうです。
なぜ、彼女の両親の行為が不問にされるのか?なぜ増田が悪者にされなければいけないのか?
もっと言えば、なぜ「正しさ」からの逸脱ではなく、「ルール」からの逸脱のほうが、人の怒りを誘発するのか?
示唆的なエントリがここにあります。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/1196589952
我々はたいてい、ルールのどうでもよさに気づいています。たとえば、親に結婚を「お願いしに」行くとか、誰がノックするとか、誰が金払うとかです。一応もっともらしい理由をつけてありますが、別にそんなのは本質的ではないということを内心では理解しています。
でも、我々がそのルールに従うのは、そのほうが楽だからです。
もちろん我々にはルールに反する自由があります。そして、本当はルールに反したがっているんです。でも、我々は「賢明」で「良識ある」大人なので、それをやってしまうといろいろ面倒くさいことになることまで知ってしまっています。ですから、みんなその気持ちを我慢して、従っているのです。
ですが増田は、おそらく無自覚にもそのルールに反しました。
そして、それに対して起きた不利益を増田に書いたのです。
それは、みんな内心では理不尽だと思っていることで、しかし我慢していることでした。ですから、増田は激怒されたのです。
たとえば、「おこちゃまな増田をたしなめてやる!」だけの動機ならば、別に当事者でもないのに激怒することがあるでしょうか。「正しさなんて意味ない」とまで言い切れるでしょうか。
そうではないんです。まず「要は勇気が」無くてルールに反することの出来ない自分がいるわけです。そして増田の無自覚な行為や文章はそれを脅かすのです。ですから、激怒したり「正しさ意味ない」と言って、必死に防衛しなければいけないのです。
ですが、これはあまり人のことは言えないんです。自由は誰にだって恐怖です。ぼくも「要は勇気が」無いために、ルールに従うなんてのは日常です。でも、せめて足についている鎖だけは自慢しないように生きていきたいといつも思っているのです。