不快感至上主義の矛盾について

見出しは地味です。

http://d.hatena.ne.jp/eiji8pou/20080413/1208068346
1. 思想信条の押し売りはするな。ウザい。街宣右翼のスピーカーと同じくらいに鬱陶しい。
2. 手段選べ。隙の多い手段を使ったんだから、そこを逆手に取られるのは戦術ミス。自業自得。それを自覚しろ。

1=その思想信条の訴えの妥当性・切実性に関わり無く、俺が不快に思ったものは消えるべき
2=集団Aが集団Bに不快に思われたとき、その不快感が集団Bの誤解や偏見であったかどうかに関わり無く、それは「隙の多い手段を使った」集団Aの責任である。
ある意味での典型ではあります、が。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080412/1208011610
まさにここを見ても、不快感を感じた・危険だと思った、という、心情が正当性の絶対的な根拠として語られています。ピザ屋は怖くないけど政治屋は怖いから、恣意的な逮捕をしていいそうです。
でも、なんかこの論理、最近聞き覚えありませんか?
先日、児童ポルノ法改正で二次元が規制されそうになったとき、規制の根拠の一つが、女性当人の「不快感」や「危機意識」だったわけですが、ネットではみんな「ハァ?不快感で表現の自由の規制ができるかよ!」と言っていました。
彼らはどこに行ってしまったのでしょう?
そもそも、政治的な訴えとは多かれ少なかれ他者の領域に踏み込まざるを得ないわけであって、我々はそこにおいての「表現の自由」を認めなければ、どこで「表現の自由」を認めればいいのか分らないわけです。そして今回のケースはそれが、あなたの所有する、私的な領域空間とかちあったのです。なるほど、両者の権利が対立した場合、そこにおいて調整しなければいけません。しかし、なぜ一方的に「表現の自由」のほうが自重するべきなのでしょうか?「表現の自由」を守るためには、ある程度私的領域空間も「制限」されなければならないかもしれないということは、このビラ問題に限っても、なぜア・プリオリに排除されなければならないのでしょうか?
その根拠は、やはりあなたが所有するところの私的な領域を侵害したかどうかが、当人の主観的な不快感や恐怖感によって決まる、という価値観に依存しければいけないでしょう。なぜなら、「住居侵入」が法的に罪であったとしても、起訴するかしないかは恣意的に決まるからです。裁判はこの場合、結論でしかありえません。問題となるのは違法かどうか、ではなく、かれこれを「違法」のカテゴリーに押し込めるかどうかという動機付けです。その動機付けの正当性が、不快感と恐怖感によって補われているのです。しかし、ほんとうにこの根拠は尊重されなければいけないのでしょうか?たとえばポストにビラをまかれる程度のことで不快になる正当性が?
そもそも、われわれが前提にしているところの、私的所有に対する不可侵性を思想的に体系立てたのは、いうまでも無くジョン・ロック*1です。「リベラリズム」の思想家として知られているロックは、重要な自然権の一つとして「所有権」をあげます。財産は神から与えられた土地を活用し、人間の労働によって得られた神聖なものであり、何人もこれを犯すことは出来ない、というものです。これは、当時のほかの社会契約説には見られない、ロック独特のものであって、のちの「労働価値説」に大きな影響を与えたといわれています。
一方で、ロックは人間を理性の命ずる自然法に従う存在だと考えていたことです。人間は生まれた状態ではタブラ・ラサ(白紙状態)ですが、成長していく上で、教育によって、様々な知識が書き込まれ、複雑な概念に対する思考や自分の行為のコントロールが可能になっていくと考えました。さらに、市民がその執行権を委託した統治権力が、もし自然法にそむき、市民を不当に弾圧した場合、市民はこれを打倒できるという抵抗権・革命権をも認めていました。
もちろん、所有(または所有権)の思想と、自然法に従う人間の思想はロックの思想の中で切り離すことはできません。この考え方でいけば、所有の擁護の根拠が(明らかに自然法ではないであろう)恣意的な不快感や恐怖感である、というのは、矛盾も甚だしいわけです。あなたが、ある政治思想が不快であると言う理由で、ポストにビラをまかれる行為を(あなたの領域の)所有の侵害であるとして拒絶する行為は、感情的には正当であったとしても、はたしてそれが、まさにその私的所有は正当なのだという理屈の根本にあるところの「自然法」に即した行為かどうかは考えなくていいのでしょうか?感情的で悪いか人間に理性があるのが幻想なんだ、と言うかもしれません。なるほど、それを認めたとしましょう。しかしその場合、我々は児童ポルノを諦めなければいけません。いや、むしろ全てのポルノを諦めなければいけません。「二次元の影響で人が犯罪に走るわけないだろ常考」というのは、人が理性的である限りにおいて正当だとします。しかし人は理性的では無いらしいです。これは二次元が人に影響をおよばさないとも限りません!
これは規制しなければいけないのです。現に、「分別の無い」とされる子供はエロを規制されているわけですから、大人ももし同じように「分別の無い」存在であるなら、当然規制されなければなりません。
…まあ、皆さんお分かりだと思いますが、
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20080412/p2
を意識してましたよ。ええ。
人間が理性的存在であるという素朴な認識がナイーブであると承知のうえで、なお理性的であるという認識に価値を持とうとする態度を、自分達が無知でバカであることをことさら正当化する目的において、嘲う、というのは、道化を恐れてバカに留まるという、最悪の立ち位置に自らを置いている気がするわけです。少なくとも彼らは上記の欺瞞には目をつぶります。つまり居直りです。われわれはかれらに居直るな、と訴えます。しかし、このような訴えでさえ、彼らは「はてなは怖い」と言ってとぼけ、「自称中立」の人は「どっちもどっち」と決め付けるわけです。
政治的訴えを届かせるには、どのようにすれば良いのでしょう?
 
(追記)
えー、こちとら伊達にネトサヨやってないんで、法律上の住居侵入罪が、どのような法益を持っていて、どのような部分で争われているくらいは知っています。このエントリで問題にしているのは、上でも書いたとおりその中でも住人の(本当に住人がそう感じていたかどうかはともかく)「不快感」「恐怖感」であって、しかも法的な正当性ではなく動機の正当性を問題にしています。
「不快感」「恐怖感」の源泉はおそらく法的な意味での「平穏な生活」とは異なる、もっとプリミティブな所有の感覚であって*2――だから厄介なのです。だって、本当に居住権や平穏権を問題にしているとすれば、つまりイラク戦争へのビラに対する不快感の正当性として居住権や平穏権を持ち出したならば、これほどの欺瞞は無いでしょう?

*1:ロックの思想については、山脇直司『ヨーロッパ社会思想史』を参考にした。

*2:私的空間の所有