なにをもって尊重というのか

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081128#p1
南京大虐殺については
あったという奴、なかったという奴、
それを併せ持つ形で設計されなければならない
僕はあったと思う、と何回も言ってるけどみんな聞いてくれない
なかったという人の意見も尊重しなければならない
という帰結が生じるという話をしている

2ちゃんにいけばふつうに(東スレでも!)修正主義者が跋扈している。Willや正論など、修正主義者の文章をお金を払って買ってくれる媒体もある。産経新聞など修正主義に寛容な全国紙もある。修正主義者の国会議員もいる。これ以上何を尊重しろというのか。修正主義者が発言することを尊重すべきと言うならば、それは十分すぎるくらいに尊重されている。修正主義者の発言の中身を尊重すべきというなら、それはご冗談をと言うしかない*1
歴史修正主義者が登場するのは「絶対的真実」が無いからではない。仮に「絶対的真実」があったとしても、歴史修正主義者は沸くだろうし、歴史修正主義批判派は今とまったく同じように、歴史修正主義の根絶可能性に絶望的な気持ちにならざるを得ないだろう*2。逆に「絶対的真実」が無いからと言って、歴史修正主義の根絶をめざしてはいけない理由は無い。なぜならば歴史修正主義は間違っているからだ。「絶対的真実」が無くても間違っていることはある。では、なぜ歴史修正主義はあってはならないか。
歴史修正主義はふつう、それ単体で表れるわけではない。たいていはいくつかの論点と一緒に提出される。
ひとつめは戦争責任。つまり、日本には戦争責任は無い。日本の戦争は正しかったあるいは少なくとも「普通の」戦争であったとする。
ふたつめはナショナリズム南京大虐殺従軍慰安婦は左翼が日本を貶めるために捏造したもので、正しい歴史を知って日本に誇りを持とう。
みっつめはレイシズム。中国や韓国は歴史を捏造して日本の国益をせしめようとしている。日本人ならあいつらを嫌うのは当然。
歴史修正主義の存在を容認するということは、実質的にこれらの思想も容認するということになる。したがって、もし彼が歴史修正主義の存在を認めるような社会を「設計」しなければいけないというなら(「併せ持つ」とは他にどのような意味があるのか)、その社会は上のような思想も容認することになる。
しかし、レイシズムが「存在する」社会とレイシズムが「容認される」社会に違いは無いのだろうか?

ジャック・バウアーと緊急時の倫理
http://d.hatena.ne.jp/flurry/180009
では、拷問に関する懸念や重箱の隅をつつくような差異で拷問を区別しようとすることに対する、以下の回答――人気があり表面的には説得力のある――についてはどうであろうか。
「何を空騒ぎしているんだい? たった今、合衆国が拷問を行うことを公認したってだけじゃないか。少なくとも合衆国は黙認状態でつねに拷問を続けてきたし、他のあらゆる国家も拷問を行ってきたんだ。むしろ今の僕らは以前よりも偽善的では無くなったんだよ」
これに対しては以下のような単純な反問を返すべきだろう。
「そのことが合衆国政府の声明が意味する唯一のことだったら、『なぜ』彼らは拷問を公認したんだ? 以前からそうしていたように、黙って拷問を続けていれば良いじゃないか」
「語る内容」と「語るという行為」との間に存在する、解消できない裂け目――たとえば「あなたはそのように語るけれど、でも、『なぜ』あなたはそのことを公然と私に語るのだろうか?」のような――は、人間の発話に内在しているものである。」
たとえば我々は皆、知人の話が退屈でバカバカしいことを婉曲に伝えるために「それってとても興味深いね」(“That was very interesting.” )という言い回しを用いることができることを知っている。もしその代わりに「退屈でバカバカしいよ」と公然と知人に語ったとしたら、彼は驚愕するだろう。何かを公言するという行為は決して中立なものではない。語るという行為は語った内容それ自体に影響を及ぼすのだ。
(・・・)
同じことが、最近、政府が拷問を行っていることを公認したことにも当てはまる。ディック・チェイニーが拷問の必要性についての猥褻な声明を行うとき、我々は問うべきであろう。
「なぜあなたはそれを公言するのか?」
まさにそれこそが我々が為すべき質問である。あなたにその声明を行わせているのはいったい何者なのか? 「24」に関して本当に問題であるのは、番組が伝えているメッセージではなく、メッセージが公然と認められているという事実である。この事実は、倫理的・政治的な基準に関して我々が深く変化していることの嘆かわしい徴候なのだ。

いかに東浩紀が自分は南京大虐殺があったと「思う」と言おうが*3、そんなことは問題にならない。議論は終わらない、歴史修正主義者を容認せよと言った時点で、かれは歴史修正主義者に加担したのと同じことなのだ。「自分は黒人を差別をしないが、バス会社がバスに白人席と黒人席を設けることを「容認」する」と言った非・黒人は、果たして差別をしていないと言えるだろうか?
東浩紀が批判されている核心がまさにこの点にあるのである。彼は「思想」*4によって、無自覚にも自らの倫理観の欠如を表明しているに過ぎないのではないかということなのだ。

*1:というか、なぜ彼は「アカデミズムにおいては修正主義者が存在する余地は無い」とひとことエクスキューズしないのだろうか。デリダでさえ言っているのに。

*2:でもやるんだよ!「根拠なき希望」

*3:「僕はあったと思う、と何回も言ってるけどみんな聞いてくれない」と言っているが本気でそこが争点だと思っているのだろうか?

*4:ポストモダン、というよりは1920年代のドイツにおけるいわゆる「保守改革派」にしか見えないが