意外な話かもしれないが、歴史主義者は一般的に考えられているような歴史の連続性を否定する。ある時代は、その時代の特殊状況でしか理解しえず、時代時代を貫く構造的同質性の存在は認められない。そして、そのことで逆説的に歴史主義者はある共同体の一体性を立ち上がらせている。共同体が存在することは自明であり、その存在は構造的な連続性などに還元されるものではない。人間の細胞は絶えず入れ替わっているが、もし細胞同士の連続性で説明できないなら、ある人間の同一性を証明するのはまさに「私が私である」という信念でしかない。歴史的に重要なのは記憶であって因果関係の説明ではないということになる。
「記憶の歴史学」が新たなナショナル・ヒストリーを産出しかねないという懸念は、歴史主義自体が記憶を根拠にしているために発生しているのだろう。ナショナル・ヒストリーだけでなく、いわゆる「多文化主義」にしてもそうである。多くの「多文化主義」運動が別の側面ではコミュニティの自閉性を強調するものになっているのは、運動の根拠が理論ではなく「交換不可能な記憶」にあるからではないだろうか。厄介なのは、「記憶」の自閉性は自覚することが難しいということにある。政治的ロマン主義をあれだけ攻撃したバーリンでさえ、急進的なシオニズム運動に積極的にコミットしているのである。仮に自覚できたとしても、記憶の闘争は自身の記憶から逃れることを許さない。文化アイデンティティが記憶に由来しているなら、理論は記憶に付随するからだ。「記憶の歴史学」を政治的相対主義のわなから逃れて論じることはとても難しいのだ。