ルールと共生

■中3女子「卒業式出たい」 茶髪注意され、教諭にはさみ押し当てる
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090314/stm0903141620005-n1.htm
越谷署の調べでは、事件当日、同校は卒業式。午前9時45分ごろ、女子生徒が遅刻して体育館に現れたところ、男性教諭に「スカートの丈が短い。髪の毛が茶髪だ」と指摘され、保健室で注意を受けていた。越谷署の調べに対し、女子生徒は「卒業式に出席させてほしかった」と供述しているという。

学校における髪型規制だの服装規制だのといったものは、それ自体に何か意味があるわけではなく、たんに大人が子どもを服従させたいということ、あるいは権威にたいする服従精神を子どものうちから「調教」しておきたいということでしかない、という点については、今は2009年ですから最早常識といってよいでしょう。ヒトラーは、何らか指導的な立場につきたいならばまず服従することを学ばなければいけないとユーゲントの挨拶で述べましたが、理不尽な校則というものは、多かれ少なかれ、こうした考え方の延長線上にあるのです。
ですが、今は2009年なので、たんに「命令に服従せよ」というのでは非難されます。実際はただ相手を屈服させたいだけなのに、その外観は多少なりともリベラルなものに見せかける必要があります。

■茶髪の何がいけないのでしょうか/意味のない校内ローカルルールには断固として反対する
http://d.hatena.ne.jp/kkk6/20090314/1237025838
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kkk6/20090314/1237025838

ブコメの、記事に批判的な「多数派」の意見を集約するとこういうことでしょうか。「いかなるルールもそれはその共同体のためのもの、「みんなの」ルールでであり、その共同体で生きようと思うならばルールを守らなければいけない。ルールに不満があるのならば、それは正当な手続きによって変更することができる。」
これは一見するととてもリベラルな共生の原則のように思えるかもしれません。あなたがこの共同体のことをほんとうに大切に思っているならば、「自発的に」ルールは守られるはずである、というわけです。しかし、ここで巧妙に偽装されているのは、理不尽な命令でしかない校則があたかも民主的なルールであるかのように偽装されているということです。さらに、民主的なルールを守ることが、その共同体の構成員として生きることと完全なるイコールで結ばれているのです。
つまり、ある権威があって、そこに服従するかしないか、ということではないのです。この場合、権威に服従しない人物は好ましからざる人物であったとしても、それ自体が権威を傷つけることはありません。ですが、ルールが「みんなの」ルールであるとされたとたん、「みんな」が権威となります。ルールを守らないということは、たんにそのルールに従わないというだけではなく、「みんな」つまり共同体に対する敵対としてみなされ、その共同体の構成員たる資格を失うのです。
卑怯であるのは、理不尽なルールを守らされる人は被害者であるはずなのに、けしてそうはみなされず、しかしその人が理不尽なルールをやぶったとたん、その人は共同体にたいする加害者であって、ルールを守らせていた「みんな」は被害者であるということにになることです。
「ルール変更に正当な手続きをとっていない」という非難もあります。しかし、ルール変更のルールが定められていようがいまいが、いまそこで理不尽なルールによって抑圧を受けている人がいる、ということはかわりません。正当な手続きを経てないことを免罪符にして、その抑圧が存続することを許容するのは、それもまた卑怯です。
もし、ほんとうの共生を望むならば、私たちは巧妙に偽装された「みんな」の幻影を取り払わなければいけないと思います。本当は、あなたは髪型規制だの服装規制だの、くだらないと思っているわけでしょう?であるならば、それはくだらないと言っていいし、無理やりそうした規制を擁護する理屈を考えなくていいのです。ともに生きるということは大切な考え方ですが、それを形式的なルールの遵守によって成り立つ共同体というものに転化させたとたん、それはたんなる現状維持になってしまいます。共生とは常に具体的な問題なのです。