「決断」の暴力に抗する
■思い出話
http://www.mojimoji.org/blog/0159
「バカ」を「シオニスト」に、「疑似科学」を「シオニズム」に置き換える。
mojimojiさんの目指そうとしている方向性については敬意を表したいと思っていますが、その議論は危うすぎると思います。「バカであるがゆえにわが子を傷つけてしまう母親の悲劇」*1を下敷きとして書かれた「十字軍はバカに勝てるか」を、現実に今、圧倒的な暴力によってパレスチナの人々を虐殺し続けている「シオニズム」にたいする論考として読むのは、少なくともそのままでは無理がありすぎると思います。たとえば、ガザ虐殺を「シオニズム(イデオロギー)であるがゆえに、パレスチナ人を虐殺してしまうイスラエル人の悲劇」という読み替えは可能でしょうか。議論としては可能であるにしても、こうした言明そのものは、現実にあるイスラエルとパレスチナにたいする圧倒的な非対称性を無視した暴力的な言明に他ならないなのではないでしょうか。ホメオパシーの問題は子どものみならず母親にもコミットすることによって解決がはかられうる。しかし、同様にパレスチナのみならずイスラエルにたいしても我々はコミットすべきだ、と今現在言及することは、どのような意味を持っているでしょうか。なるほど、パレスチナ問題の解決のためには究極的にはシオニストとの交渉は不可欠かもしれません。シオニストの殲滅という、ともすれば反ユダヤ主義的な解決策をわれわれが選択しないならばなおさらです。ですが、われわれ(日本人)は結局はパレスチナ問題において他者でしかない。もちろん、当事者でなければ問題について意見を述べてはならないということではありません。ただ、われわれが他者であるならば、その語りかたには注意を払わなければならない。たとえば、サイードも言っているからといって(その主張に賛同するとして)われわれも同じことを同じようなやりかたで主張しうるか、というと、そうではないと思うのです。
普遍的な理念は大切ですが、具体的状況から出発しない普遍的な理念は空疎です。ルワンダの虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺は比較可能かという議論をしても意味がない。ただ、ルワンダの虐殺、あるいは朝鮮人虐殺にたいしてわれわれが徹底的に寄り添うことによってのみ、もう一方の事件と比較しうるような普遍的な視座が持てる。ぼくはそれを次の記事で書きました。
■歴史的事件の唯一無二性と『ホテル・ルワンダ』
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060228/p1
ノルテの「普遍化」が、ホロコーストの記憶からドイツ人を解放しようとする性格のものならば、町山氏の「普遍化」はその逆で、朝鮮人虐殺事件の、そのほか様々な事件の、記憶を要請するものである。言い換えれば、事件の「虐殺」という側面を単に「普遍化」しているのではなく、個々の事件が特有なものであって、それぞれがそれぞれ記憶されなければならない、ということを「普遍化」しているのだと思う。
あるいは、小田実の「殺すな!」はなぜ普遍的な理念たりえたかというと、そのスローガンは彼のベトナム戦争反対運動に対する徹底的なコミットと日本国憲法のラディカルな読解による「政治的」産物に他ならないからであって、たとえば、文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような*2空虚な「殺すな!」ではない。ぼくには、mojimojiさんが行っている「シオニストと交渉せよ」という主張は、この空虚な「殺すな!」に接続しかねない危うさを持っていると思います。「シオニストと交渉せよ」が正しいとしても、われわれにそれを言明させたがるような欲望というものは、果たして「観客席」的なものなのではないでしょうか?
一年前、チベット問題に関してこのような文章を書きました。
■決断主義とチベット
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080326/p1
つまり何が言いたいのかというと、チベット問題において自らがコミットすべき選択がないなら、その選択肢の不在の中でチベット問題を語らなければいけないという現実を受け入れなければならないということである。何かを選択しなければチベット問題は解決しないという恐れから、信じてもいないナショナリズムの文脈に乗っかってチベット独立を主張するべきではないし、また結論が出ないからと言ってチベットについて考えることを止めるのも不誠実である*6。俺はチベット弾圧に反対だしそれを表明しているが堂々と言わない反対と言わない左翼は何だ、という態度は、まさに決断したものが決断しなかった者を笑うという危険な態度に他ならない。決断を尊ぶものは決断しないことを恐れる。典型的な例がまさに最近のアイヌ問題に関する2ちゃんやブクマの反応に見られる。「結局どうしたいの?」「結局どうして欲しいの?」そういう問題じゃねえんだよ。
「シオニストと交渉しなければならない」ということを出発点にするというのはある種の「決断」です。そのこと自体が問題なのではない。しかし、その決断をもって「本気でパレスチナに寄り添う」*3とするのは、―それを行うことで「観客席」にあがれるような―「決断」にたいする陶酔ではないでしょうか?「結局パレスチナをどうしたいの?」という問いは、アイヌの人々に「結局どうしてほしいの?」という問いと同様に暴力となっています。まあ問いというものは多かれ少なかれ結局は暴力なのですが、それでも一方にたいしてのみ非対称な暴力がまかりとおっている現状があるならば、「まず」そこを変えなければいけないのです。問いの暴力の解消と問いそのものを「同時に」行うことははたして可能でしょうか。暴力的な問いが前提としているものは何か。「観客席」です。暴力的な問いは常に(具体的状況にたいするコミットメントを欠いた)「観客席」から発せられます。だとするならば、まず「観客席」から彼らをおろさない限り、問いは真に「建設的」なものとなりようがありません。
もちろん、パレスチナの人々の代弁に徹せよということではありません。われわれが代弁するということは、代弁される主体をわれわれが構築すること、つまり命名するということです。ですが、命名するということは、たとえば岡真理さんが『彼女の「正しい」名前とは何か』で主張されているように、それ自体暴力的であります。にもかかわらず、われわれには「名付けたい」という欲望も―「決断」への「観客席」的欲望―があります。
結局のところ、まず必要なのは、「正しい」決断を探すことではなく、「正しい」決断への欲望に抵抗しながら、「決断」しえないものを語るという慎重さではないでしょうか?「シオニストと交渉せよ」というのはよいのですが、その語り方は慎重さが必要になると思います。「やり方」がまずい「戦略」がまずいとかどうとかの話ではなくて、コミットメントそれ自体に関わる―たぶんに「倫理的」な―問題として。少なくとも「十字軍はバカに勝てるか」の「シオニスト」への適用は*4、その慎重さを欠いているように思いました*5。