「永遠の嘘」を構成する者
■「村上春樹」を巡る政治
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090217/p1
村上春樹を批判する気はありません。彼は、できる限り倫理的にふるまおうとしたと思います。「リスク」についていえば、さらに踏み込んだ発言・行動を取ったとしても、結局は高い「リスク」を取らない発言・行動は「永遠の嘘」を破壊できないし、「永遠の嘘」を破壊するほどの「リスク」を人が取らなかったとしても、それはけして批判できないでしょう。
問題は、「永遠の嘘」は、騙す者と騙される者・騙されたがる者だけで構成されているわけではないということです。村上春樹は、受賞を拒否してさえも、イスラエルの「寛容さ」によって暖かく迎えられる可能性はありました。その意味において、彼がイスラエルで公然とイスラエルに批判的な講演を行ったことは倫理的でありました。
ところが、嘘を嘘だと言い、自分にできるできる限りの誠実な態度を取ろうとすると、それすらも「永遠の嘘」を構成し、補強する一部になってしまう可能性があります。
念頭にあったのは、「オメラスから歩み去る者たち」です。
http://web.archive.org/web/20050521234526/http://flurry.mints.ne.jp/omelas.html
ときおり、その子に会いに行き、涙を流し憤りを感じた思春期の少年少女のうちの一人が、家に戻らないということがある。そう、彼らは実際、まったく家に戻ってこないのだ。またときおり、もっと年をとった人たちが一、二日の間黙りこんでしまい、そして家を出ていってしまうということがある。これらの人々は街路に出て、そして一人で街路を歩いてくる。彼らは歩き続け、そして、美しい城門を抜けてオメラスの街からまっすぐに歩み去る。彼らはオメラス郊外の農場地帯を歩き続ける。彼らは老若男女問わず一人きりだ。
夜が来る。窓に黄色い灯りがともった家々の間を彼らは通り抜け、そして暗闇の中へと踏み出していくだろう。彼らは一人でオメラスの西や北へと、あるいは山々へと向かう。彼らは歩き続ける。オメラスを去って暗闇の中に入っていき、そして戻って来ない。
「歩み去る者」は、オメラスの中で子どもの悲惨を訴えることはしないし、共謀して暴力に訴え、子どもを解放することはしない。ただ「一人きり」で歩み去っていく。それは、「一、二日の間黙りこんでしまい」という倫理的葛藤の結果です。「永遠の嘘」が嘘であると気づいた者も、結局は自分自身もその構成物であることに気づかされます。その事実と実践との狭間にあって、できる限り誠実にふるまおうとした結果が「一人きり」で歩み去るという作法なのです。
でも、これだって実際は「永遠の嘘」の予定調和にあるのです。「一人きり」で歩み去る者は、「永遠の嘘」の継続に対して何の障害にもなりません。だから、ある意味では、「永遠の嘘」から逃げる(受賞拒否)のではなく、「永遠の嘘」にあえて乗っかってみせた村上春樹は、より倫理的であったといえるかもしれません。ですが、だとしてもそれも「永遠の嘘」を補強する材料になっているのです。
村上春樹のメッセージを、これからの「実践」のためのメッセージとして読むことは可能だし、そう読むべきであるとは思います。でも、では「実践」となったとき、ぼくたちの周りにあるあまりにもたくさんの「壁」と、それに対する自らの加担と無力さに直面することになります。それに対してもっとも誠実にふるまおうとすれば、「一人きり」で歩み去るしかなくなります。けれど、それは状況の改変にはまったくつながりません。
「詰んでいる」と言ったのは、そういうことです。では「詰んでいる」からはじめる実践はどういうことか。ぼくが今考えているのは、誠実にふるまうことをやめるということです。といっても、別に嘘をついたり自己欺瞞に陥ったりせよという話ではないです。今のところあまりうまく説明はできませんが、たとえば「ニートのあした」宣言のようなことではないかな、と思っています。
■「ニートのあした」宣言
http://d.hatena.ne.jp/asita211/20090212/1234430203
はたらきたくない。きょうは、やすみたい。そんなとき、あなたは すてきなニートです。
やすみたいけど しごとに いくか。それでも あなたはニートです。そういった ゆるい連帯、資格を とわない社会運動が必要なのです。
ところで、村上春樹のスピーチだけではなくてここ最近の報道は、「どっちもどっち」からややイスラエル批判のほうへ軸足が移ってきたかな、と思います。それについては希望として持っておきたいと思います。