非難されると気分が悪くなるのでやめてください

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid433.html
うーん……。
政策についてまがりなりにも何事かを語ろうとしていたのは、少なくとも橋下よりは熊谷であったと思うけど、まあそれはいい。
いくら政策で勝負したとしても、人権擁護条例をつくると大阪は外国人に占領されてしまうとか、とりあえず公務員叩いて不採算部門を切るのが最もゲンジツテキであり、また自分達の溜飲も下がるので良しと考える人々には結局嫌われるだろうし。
ネガティブキャンペーン自体には効果はあるのだろうし、知名度で勝負している候補者と戦うときの一つの戦略ではあると思うけど、まあそれもいい。
伝えられた事実が真か偽かと人を貶めているかどうかの間には直接的な関係は無いわけで、とにかくどのような事実であろうと、あたかも人を貶める目的であるかのような形で伝えられる事実は知りたくない聞きたくないという人もいるだろう。
そいつが本当に一貫してそんなフィルタリングをしているか相当怪しいけどな。
そして、大阪府知事選挙の結果が、国政に対して何らかの影響があるということを否定しないならば、外野席から何事を言う権利は否定できないとも思うが、まあそれもいいよ。
問題は、「激しく非難することは多くの人の反発を生んでしまうので、それをすることは賢明では無い」という論法であり、それを言っている人だ。
もっと酷いのになると、「バカをバカにするとバカはより閉じこもるのでバカをバカにしてはいけない」と言ったりする。あなたそれ完全にバカをバカにした言い方ですよね!?
さて、激しく非難することがなぜ反発を生むのかというと、どうやらその非難に妥当性があるかどうかに関わり無く、それが上から目線であるとか、揚げ足取りであったなど、受け止めるほうの主観的な感覚値の問題であるらしい。敬語を使わないのは上から目線だが石原慎太郎はそれに妥当するのかどうかとか、その非難はその候補者の政策に対する本質的な批判なのか単なる揚げ足取りなのかどうか、は議論される必要は無く、とにかく受け止める側が不快に感じたならば、その非難は正当にも反発されるのである。
まあ上から目線で非難されると頭にくるし、本当に上から目線で非難している奴もいるからね*1
また、彼らは単に熊谷(あるいは熊谷陣営)が橋下を非難したことを賢明では無いと言っているのみならず、熊谷(あるいは橋下以外)を応援する「サヨク」が橋下を非難すること、あるいは、橋下に投票した人々を非難することをも非難している。彼らは、自分達の考え方と異なるからといって「上から目線で」「軽蔑的に」「橋下に投票した普通の人々」を非難しているというのである。しかし、こうした人々を非難することは、彼らを味方につけるどころかますます彼らを離反させてしまう。それは賢明では無い、と。
こうした反発は、ある種の古典的な啓蒙主義に対する反発であると言うことも出来る。
古典的な啓蒙主義は、人々が無知のせいで植え付けられてしまっている虚偽の観念を晴らそうとする。この前提にあるのは、虚偽の観念は正しい観念によって説得されうるという信念であり、つまりは観念それ自体を人々の現実から独立したものと考えることである。
ただこれに対しては、「観念がひとりでに生まれるわけ無いだろ常考」という批判がその後されて、今ではまあ人々が考えていることはそれなりに現実を反映したものなんだよ、という考え方がだいたい一般的になっていると言ってよい*2
しかし、そうであるとすれば一体どのようにして説得は行われるのだろうか。現実が観念を規定するならば、いくら口で言ったところで人の観念は変えることはできなくなってしまう。ひとつの方法は、現実から来る観念と今現在人々が有している観念は異なると言うことだ。たとえば「橋下は庶民を馬鹿にしない、庶民の味方である」というような観念は事実として虚偽であるから、これは虚偽の観念であると言ってしまうことである。それは、事実を正確に伝えることで正しい観念へと変更されるという。
ところがことはそう単純では無い。

■[シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学](その2)「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070727/1185459989
だから、「無知な大衆が情報操作されて石原慎太郎に投票している」というような社会批判は馬鹿げている。そんなふうに言うことは、「大衆」を「被害者」にしてしまう。だが彼らは、「永遠の嘘」の茶番において「無知」という役割を演じているのであり、これは高度な知性とリテラシーを深いレベルで持っていなければできないことだ。

もし観念の選択が、ザッハリヒなレベルにおいて行われていないとすれば、我々は事実が虚偽であるかどうかを根拠に虚偽の観念と正しい観念を分別することに意味は無くなってしまう。現実世界がそのような共同謀議を要請しているとすれば、そもそもその表象に過ぎない橋下のポピュリズムを非難しても無駄である。
だからこそ、非難は賢明では無いと言われるなのだろう。確信犯的に行われているシステムに対していくら声をあらげても、それは人々を不快にするだけである。人々を味方につけたければこのシステムを利用するしか無い、と。
戦略としては正しいのかもしれない。しかし、この誘惑は、こんな経済システムなんだからお前もハゲタカになろうぜ、というのとどこが違うのだろうか?
違わなくても別にいいです、という人もいるだろう。しかし、基本的に橋下を非難していた人たちが「サヨク」だとして、「サヨク」は一般的にこの社会に対して何らかの異議申し立てをしたいという欲求がある人々であると解釈したとしよう。社会に対して異議申し立てするということは、その社会が規定している人々の(何らかの)観念をも結局は異議申し立てるということに他ならない。今までの議論で言えばね。それはどうしても人々を不快にさせるのを避けられないのでは無いだろうか。人々を不快にさせることが賢明では無いとすれば、社会への非難も賢明では無いということになり、結局は空気読んで流されているのがいいのだ、ということになる。
つまり、不快にさせるのを恐れて非難をしないのは本末転倒じゃないの、ということなのだけれど。

*1:俺とか

*2:まあそんな単純に言っちゃいけないんだけど