ベーシック・インカムという脅迫

「魚を取ってやるのではなく魚の取り方を教えるのだ」は最近みんなが大好きなたとえですが、実際に先進国が途上国に対してしたことは異なっていて、つまり「魚を直接取るよりも釣りざおをつくって魚と交換してもらえばよいじゃない」と吹き込んだのです。かくして魚が取れなくなって釣り人が魚を売らなくなったとき、可哀想な釣りざお職人は飢え死にしたのでした。
さて、問題はベーシック・インカムです。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50907051.html
ぼくはこんな醜悪な記事を書く人に尻尾を振る人々が全く理解できないのですが、ともあれこれはある種の主張ではあるし、ベーシック・インカムという言葉に踊らされてうっかり賛同したくなる気持ちもわからないではありません。
ポイントは、またしても「選択の自由」です。

ベーシック・インカムが始まれば、当然それで飲んで打って買うものも出るだろう。しかしそういった行動にオカンのごとく文句を付け、「正しい行動」を押し付けるのは、自由主義の主張に悖る。ベーシック・インカムの世界においては、それで身を持ち崩すことに対する言い訳は出来ないのだ。繰り返すが、ベーシック・インカムは、その意味において決して優しいだけのものではない。それをどう活かすかは、自分の頭で考えねばならないのだから。

この文書は一見「選択の自由」を称揚しているようでいて、ものっそい抑圧的な命令を含んでいるということは自明です。理解できない人は、http://d.hatena.ne.jp/toled/20080229/p1を読んでいただければよいと思います。たとえば、年金と生活保護が月たった5万のBIにとってかわるダンコーガイワールドにおいては、一人暮らしの老人はBIだけではとても生きてはいけません。つまり、我々は「正しい行動」を押し付けられていなくても、「正しい行動」を取るように強いられているわけです。民間の年金保険に入る・十分な貯金をする・子供をつくって養ってもらうなどの行動を取らなければいけません。身を持ち崩すことは死を意味する以上、我々に「正しい行動」を取らない自由はありません。
ダンコーガイは、「意見を半強制的に提出させる仕組み」としてBIはあるといいます。しかし我々は「正しい行動」を取るように強いられているわけですから、「意見」の内容ももちろん限られてきます。つまり、我々は「投資」を行わなければいけません。「投資」の内容は証券だったり、あるいは自分への教育だったり様々ですが、少なくとも我々はなんらかの「生産性の高さ」を獲得しなければいけないという点では一致しています。そして、その「生産性の高さ」の基準は、市場つまり資本主義によって決定されるのです。つまり、われわれはBIを得ることによって「資本主義のシステム」において「正しい」行動を取るように強いられるのであり、またそのようにして取られた「正しい」行動は、また「資本主義のシステム」を維持発展させるのに役立つのです。
ところで、「正しい行動」があるということは、「正しくない行動」があるということです。たとえば浪費により身を持ち崩すことは「正しくない行動」にあたります。では、「正しい行動」を取る「正しい人間」と、「正しくない行動」を取る「正しくない人間」は、根本的に違う人間なのでしょうか。そうではない、とダンコーガイのようなBI支持者は言います、今は「正しくない人間」でも「正しい人間」になることが出来る潜在能力はあるのだと。BIは、「正しい人間」になってほしいという期待なのだと。しかし、既に述べたように「正しくない人間」は死ぬしかないのですから、「正しい人間」になることは期待ではなくて脅迫であることは間違いありません。いわば、ダンコーガイのBIとは、我々を「資本主義のシステム」に適合する人間に強制的につくりかえるシステムであるといえるでしょう。そしてその論理は、帝国主義あるいはグローバル資本主義といった、歴史的にみられる資本制の支配の論理とまったく一致しているのです。
近代的な資本主義を、普遍的で善きものと捉える考え方においては、人が資本主義に取り込まれることは善いことであるとみなします。資本主義は、「正しい行動」を取る限り誰でも恩恵を享受できるシステムだと考えられているからです。その考え方において、新たな参入者が現実に置かれている「搾取」という事態は「正しい行動」を学ぶための代償として正当化されるのです。ここでも前提は「正しい行動」と「正しくない行動」があり、またあらゆる人間には「正しい行動」をする契機があるということです。
1550年にスペインのバリャドリードで二人の宗教家がおこなった論争、いわゆるバリャドリード論争は、この問題を考える上で示唆を与えます。新大陸におけるインディオの奴隷化を肯定する神学者セプルベダと、インディオの解放を訴える神父ラス・カサスの議論です。セプルベダが引いたのは、当時の最先端学問であったアリストテレス哲学です。主人と奴隷は生得的に決定されるというこの古代ギリシアの哲学者の議論を根拠に、インディオは本来「キリスト教を理解できない」奴隷となるべき存在だとセプルベダは言います。それに対してラス・カサスは、インディオは「今は」キリスト者ではないが、教育によってはよきキリスト者になれる契機を有しているのだと主張します。結局カトリックの牙城スペインはラス・カサスを支持しインディオを解放するのですが、それを単純に「人種差別」に対する「人道主義」の勝利と見ることはできません。何故インディオを奴隷にしてはいけないかというと、インディオインディオであるからではありません。インディオは「キリスト者」になれるから、奴隷にしてはいけないのです。トドロフは言います。

つまりキリスト教が対立、あるいは不平等を知らないのではなく、キリスト教における対立とは信仰者と不信仰者、キリスト教徒と非キリスト教徒の対立なのである。ところで、どんな人でもキリスト教徒になることができる。つまり、事実としてある差異と本性の差異とは一致しないのである。

他者の記号学―アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

他者の記号学―アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

さて、はたしてこの議論はほんとうにインディオを解放しているのでしょうか?インディオは確かに奴隷ではなくなりましたが、またインディオインディオとして生きることもまた否定されています。つまり、彼らは善きキリスト教者にならなければいけないのです。もしそうならないとするなら、誰かが彼らを導かねばなりません。その過程で当然彼らの自由を制限することもあるかもしれませんが、それは仕方が無いことなのです。帝国主義時代の植民地主義者の論理は、この「キリスト者」が「近代資本主義」に変わっただけでありました。自由主義者のJ・S・ミルでさえ、植民地の人間達は自由を行使するに値しないというパターナリストでした。こうした序列化に疑問をもつ人間が提示したのは、差異の論理です。かくしてセプルベダの復活です。そして搾取は「正しい人間になりえない者」と「まだ正しい人間ではない者」の対立の中で、両方において行われるのです。
そして、この「まだ正しい人間ではない」という理論を内面化してしまった人間は、湯浅誠氏が言うように「自助努力」に頼りすぎて苦しむことになります。そしてダンコーガイ的BIはそれを補強するのです。キリスト教への入信がまず自らを悔い改めることから始まるように、BIは貧しい人々に今までの自分の「正しくない行い」を悔い改めさせると同様に、社会が彼らを搾取する免罪符にもなるのです*1。そのような欺瞞に加担するのはもうやめるべきではないでしょうか。何もBIで無くても、生活保護の拡充と基準の緩和、教育・医療の無償化、最低賃金の設定や雇用保険の充実など、現実的に出来る社会福祉はたくさんあるわけです。歴史や社会理論に無知な理系崩れが考えたシャカイコーガクなどに関心を向けるよりも、もっと蓄積された運動を検討するべきでは無いでしょうか。

(追記)
財源の話をしろとうるさいので言っておくと、西欧先進諸国並みの社会福祉が実現するなら、これも欧州にならって生活必需品を非課税にしたうえで消費税20%にでもすればいいんじゃないでしょうか。もちろんお金持ちにはそれ以上に払っていただく税制をなんらかの形で用意しましょう。能力の高い人のやる気が……とか、海外に資産が……などとゴネるなら革命しかありません。そもそも社会におけるプライオリティを考えれば財源の話などできなくなる、というのが正しいはずなのですが。