もうダメだ

日本のパレスチナ支援運動は「反ユダヤ主義」と紙一重だとずっと思っていた。あの「ナブルス通信」でさえ、フィンケルシュタインを留保無しで肯定的に扱っていた。
でも、現在パレスチナイスラエルによって圧倒的な暴力にさらされていることを考慮すれば、心情としてそのような気持ちを持ってしまうこともおかしくないし、それを公表してしまうのかもしれない。その怒りさえ否定してしまっては、運動家はただの評論家に堕することになる。そう思って今まではあまり指摘してこなかった。
でも、ここ数日のパレスチナ支援家と歴史修正主義との親和性を見てると、やっぱダメだと思った。確かにパレスチナは緊急の暴力にさらされている。でも、ぼくたちは安全な日本にいる。であるならば、パレスチナにたいするコミットは、より厳しい倫理が求められるはずである。運動家は倫理的に高潔でなければいけないとは思わないし、運動は資格を問わずに参加できるのが望ましい。しかしながら、ぼくたち自身は緊急性に直面していない。であるならば、自分が何を言っているのかについてまったく考慮しないという甘えが許されるはずがない。ぼくたちは、この国で何かを発言し続けようとする限り、当事者にはなれない。同じ言葉を喋ったとしても、当事者が語るのとぼくたちが語るのではその効果は異なるのだ。そこには深い断絶がある(また、当事者と当事者の「言葉」の間にさえ、断絶はあるのだ)。だからこそ、ぼくたちは言葉を選ばなければならない*1。当事者にたいしてコミットすること、あるいは当事者を批判すること、両方の面において、それが新たな悲惨を生むことがあるのだから。
ここ数日の、安易な「ホロコースト」に対する言及によるイスラエル批判、たとえば歴史修正主義に理解を示したり「ホロコースト利権」を疑ったりすることは、そうした配慮がなされているとはまったく思えない。600万人以上を殺したジェノサイドであり、今もまだ被害者が生存している出来事について、イスラエル批判のために安直に持ち出されてしまうということについて、どれだけの危険性を秘めているか少しは疑ったことが無いのだろうか?その行為は、中国人を蔑視し、差別語を吐きながらチベットの解放を叫ぶ維新政党新風の人間たちとなんら変わるところがないではないか?
というか、パレスチナで起こっているのがジェノサイドであるという認識があるのならば、同様にジェノサイドである「ホロコースト」について、なぜ揃いも揃って無関心なのかがまったく理解できない。そのくせ「ホロコースト利権」や被害の規模を疑ったり相対化したりする「歴史修正主義」のようなものについては、みな急速に関心を示しだす。少しでもイスラエル批判をしているものならば、陰謀論者にでも修正主義者にでもホイホイ飛びつくのなら、そんな運動やめちまえばいいと思う。
参考

■排外主義者、あるいは日曜サヨク
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080326/p1

*1:倫理的に無垢でなければ黙れとということではなく、むしろ、無垢にはなれないから、声をあげながら選んでいくしかないということ