「ホロコースト産業」の何が問題か

ホロコースト産業」については以下のリンクに要約がある。
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_hb/a6fhb811.html
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20061004NGFinkelstein.htm
また、今回この文章を書くにあたって以下の本などを参照した。

「シリーズ・ドイツ現代史」は値段・分量ともに手ごろで、また質の高い議論がなされていると思うので、機会があったらぜひ参照してほしい。
さて、本題の批判にはいるが、この本の問題をここの資料まで検証して指摘していくのはキリがないし、本質的だとは思えない。よって、いくつか確実に問題点を指摘できることをいくつか取り上げた。したがって、取り上げていない論点に関してぼくが承服しているというわけではない。
ユダヤ人請求会議は、ユダヤ人財産を不当に着服してきたか?

p.87-88 「近年では、ホロコースト生還者が再定義され、実際に苦しみに耐えた者だけでなく、ナチの追及を逃れた者をも含めるようになった。この定義では、たとえばナチ侵攻後にソヴィエト連邦へ逃れた10万人以上のポーランド難民も、「生還者」に含まれることになる。・・・・イスラエル首相府は最近、「生存するホロコースト生還者」の数を100万人近くとした。このインフレーション的修正の主たる動機も、見つけるのは難しくない。現在生きているホロコースト生還者が本のわずかでは、新たな賠償金をせしめるための大きな圧力にならないからだ。実際にヴィルコミルスキーの主だった共犯者は、全員が何らかの形で、「ホロコースト賠償金ネットワーク」とつながっていた。・・・・」

「近年になると、請求会議は、旧東ドイツ公民権を奪われたユダヤ人の資産を着服しようとした。数億ドル分に相当するこの資産は、本来ならば存命の相続者に帰属するべきものだ。請求会議があれやこれやの職権濫用で遺産をだまし取り、相手のユダヤ人からの攻撃に晒されると、・・・どっちもどっちだとして、・・・冷笑した・・・・」

「スイスとドイツに対するゆすりは序曲にすぎなかった。最大の山場は東ヨーロッパに対するゆすりだった。ソビエト・ブロックの崩壊により、かつてヨーロッパ・ユダヤの中心地域だったところに魅惑的な展望が開けてきた。『困窮するホロコースト犠牲者』という殊勝げなマントに身を包み、ホロコースト産業は、すでにして貧しい国々からさらに数十億ドルをむしり取ろうとしている。

戦後になって、ユダヤ人財産の返還問題が発生した際、戦争そしてホロコーストによる持ち主の死去・行方不明・資料の紛失などのために大量の相続人不在の財産が生じた。このため、西ドイツでは1949年、ユダヤ人団体が結成した「ユダヤ人返還継承組織」「ユダヤ人信託法人」にそうした財産を帰属させることにした。個人については1956年の連邦補償法によって、年金を支払うことにした。
連邦補償法は、第一条で「ナチズムの迫害の犠牲者」が対象であると決定している。これは「ナチの追及を逃れた者」も含まれる。したがって、「近年では、ホロコースト生還者が再定義され」というのは妥当ではない。連邦補償法の問題は、その請求権を法律の成立時点で西ドイツに在住していたものに限定したことであった。そのため、連邦補償法の成立以後、そのほかの国々とは二国間協定が結ばれた。しかし、冷戦下にあって、東ドイツや東欧圏の国々とはそれが結ばれなかったのである。特に東欧では、本来ユダヤ人に返還すべき財産が国有財産とされ、社会主義国家建設のための資本として使われていったという経緯がある。しかし1990年以後の民主化によって、ドイツと東ヨーロッパ諸国との間で協定が成立し、東欧圏に住んでいたせいで補償を受けとることができなかった人びとに対して補償をすることができるようになったのである。なすべきことがなされたというだけであり、「数十億ドルをむしり取ろうとしている」という非難は不当なものである。
また、相続人不明の共有財産はユダヤ人コミュニティの帰属とするという決定は、先に述べたように戦後直後になされており、統一ドイツにおいてもそれが踏襲されたにすぎない。特に、戦後40年以上経過した時点においては、どの財産が誰に帰属すべきかより難しくなっていたのである。
共有財産がユダヤ人コミュニティのものになった背景には、ドイツ側の事情がある。戦後、ドイツに在住したユダヤ人はそのほとんどが戦前にドイツ以外の地域に住んでいた者であった。このため、ドイツのユダヤ人コミュニティとイスラエルなどに渡った元ドイツ在住のユダヤ人とで財産の帰属をめぐって争いがあった。しかし、ドイツ政府はドイツのユダヤ人コミュニティを再生させることで「生まれ変わったドイツ」をアピールしたいという思惑があったため、厳密に財産の帰属を定義することをやめて、共有のものと位置づけたのである。この裁定にはもちろん多くの問題・課題があるし、何が相続人不明の財産かについて訴訟もあった。しかし、それを遺産を着服しようとしたユダヤ人請求会議の問題であるとするのは正しくない。
スイス銀行や企業にたいする補償の請求は「ゆすり」か?
これは細かい資料批判の問題になってしまうので個人的にいえることはないが、少なくとも通説においては、スイス銀行にはユダヤ人の財産が眠っていたのであり、その補償は正当なものであること、また国家賠償とはべつに、各企業が各個人に補償を行うことは戦争責任の取り方として当然のこととみなされていることは、引用者側が気を使うべきところだろう。企業の個人補償を「ゆすり」という言説に賛同する人間は、現在日本で行われている様々な裁判についてどのような見解を持っているのか聞いてみたいところである。
■1967年の中東戦争が「ホロコースト産業」の誕生か?

1967年6月の第三次中東戦争・・・・ザ・ホロコーストアメリカ・ユダヤ人の生活と切っても切れないものになった。
(アラブ世界で不人気なイスラエル、強国イスラエル、軍事大国イスラエル、そのカモフラージュ、その正当化の武器としてのホロコースト=被害者としてのユダヤ人)

この関連付けは、当然資料に結びつかない不当なものである。確かに「ホロコースト」が語られ始めるのはこの時期からだが、それは1968年の左翼運動の高まりと平行して戦争責任問題がクローズアップされたことと、1969年のブラント政権の誕生によるドイツの歴史政策の転換が大きな要因とされる。実は中東戦争をカモフラージュするために「ホロコースト」が利用されたんだよ!な、なんだってー!というのは、常識的に考えてお粗末な陰謀論の手口と言わざるをえない。
ユダヤ人は、ロマに対する虐殺の記憶を抑圧してきたか?

策略の核心はユダヤ人のためだけに記念すること

ホロコースト博物館という策略の核心は、誰のために記念するのかというところにある。ザ・ホロコーストの犠牲者はユダヤ人だけなのか、それともナチの迫害によって殺された者はすべて犠牲者として数えるのか。ワシントンの博物館が計画段階にあったときは、ヤド・ヴァシェムのイェフダ・バウアーとともにエリ・ヴィーゼルが、ユダヤ人だけを記念せよとする立場の急先鋒だった。

ヴィーゼルらの見解については知識がないので判断ができないが、ともかくフィンケルシュタインはロマの虐殺を抑圧することが「ホロコースト産業」の重要事項であったかのように書いている。しかし、これはまちがいである。あのサイモン・ヴィーゼンタールは、ユダヤ人の「ホロコースト」記念碑にロマを含めることには反対したが、他方でロマに対する「ホロコースト」記念碑の設立にたいして署名を集めるなど大きな貢献をしている。もし「ホロコースト産業」にとってロマの虐殺は無視しなければいけないのなら、まさにその担い手の中心に違いないヴィーゼンタールはなぜそうしなかったのだろうか?ユダヤ人とロマの「ホロコースト」を区別することと、ロマの「ホロコースト」の記憶を抑圧することはまったく別なのである。
ホロコーストの唯一無二性について
上に関連して。ある出来事が唯一無二であることは必ずしも比較可能性を失うというわけではない。そもそも、「完全な虐殺」が存在しない以上、比較はその唯一無二性において行われるのである。他方で、ある出来事が唯一無二ではないということが、その出来事に対して相対化を促し、出来事の矮小化や過小評価につながってしまう。このような考え方は、多くの研究者に親しまれてきた考え方である。「ホロコースト」は近代の延長線上にあるのか、あるいは近代からの逸脱かという議論がある。もし、「ホロコースト」が近代からの逸脱であれば、では「正しい」近代とは何かという問題になる。そうではなくて、近代における諸原理によって、「ホロコースト」は行われたのだという議論が現在では主流である。ところが、この議論にはわながある。近代の諸原理が「ホロコースト」を促したのならば、「ホロコースト」は目的論的に不可避であったことになってしまう。社会史家デートレフ・ボイカートは、「ホロコースト」は確かに近代の産物なのだけれども、「ホロコースト」に至るまでにはいくつもの捻りを加えなければならなかった、と述べた。この「捻り」の部分こそが唯一無二性なのではないだろうか。いわゆる「機能派」の歴史家たちは、まさに「ホロコースト」にいたるまでの諸条件を考慮するからこそ、この「捻り」、唯一無二性を強調する人が多い。逆に、「意図派」のほうが「ホロコースト」の安易な相対化に繋がる場合が多い。「意図」に着目するほうが「構造」に着目するよりも唯一無二性を強調しそうなものだが、じっさいは逆なのである。
1980年代、「意図派」の大物であるアンドレアス・ヒルグルーバーは、「ホロコースト」を含むナチス・ドイツの犯罪は、共産主義の犯罪に対抗するために行われた「悲劇」であるという見解を発表し、大きな批判にさらされた。ヒルグルーバーの見解は「ホロコースト」のジェノサイドをスターリンによって行われたジェノサイドによって相対化し、暗に免責あるいは罪の軽減を要求するものであることは明白であった。この見解を批判した研究者たちは、「ホロコースト」は唯一無二であり、いかなるジェノサイドによってもそれは相対化できないと主張した。ヒルグルーバーはこれに対して「歴史には禁じられた問いはないはずである」という再批判をしているのが興味ぶかい。じっさいに批判者側は問いを禁じたわけでも比較を禁じたわけでもない。ただ、その相対化の手法が研究史的にも倫理的にもまちがっているという具体的な批判をしたのである。しかし、ヒルグルーバーは一般的な見解を述べることで問題を摩り替えている。ここでもある種のテンプレートが用いられているのである。
フィンケルシュタインの議論が、こうした研究史的な蓄積に基づいているとは思えない。
さて、フィンケルシュタインの話にもどるが、ラウル・ヒルバーグがフィンケルシュタインを支持しているという。ヒルバーグがどのような見解で彼を支持しているのか知らないのでこれは推測であるが、ひとつには、やはりヒルバーグがどちらかといえば「意図派」に分類されうるというようなことが関わっているのではないだろうかと思う。
■おわりに
この本の問題点をいくつか列挙してきたが、そもそものこの本の特徴として、「歴史修正主義」的な手法が多く使われていることがある。もちろんフィンケルシュタインは歴史修正主義者ではない。しかし、共有財産の帰属をコミュニティにするというような、この問題に多少なりとも関心があるものであれば誰でも知っているような公開情報を、あたかも「新事実」のように提出し、それに「財産を騙し取ろうとしている請求会議」という脚色を加えるというのは、「修正主義」お決まりのパターンである。細かい事実関係は別として、大まかな事実においては、フィンケルシュタインの議論に新しいものはない。彼が行ったのはその事実の取捨選択とそれに対する恣意的な読みであって、けして「今まで知られなかった真実」を暴露したわけではない。単に通説とは異なるのである。よって、フィンケルシュタインを読んで、それに支持不支持の判断をしようとするならば、いずれにせよ、ドイツあるいは他の国における、ユダヤ人にたいする補償がどのように行われてきたかという歴史を知らなければいけないはずなのだ。少なくとも手放して「こんな本があります!」と嬉々として取り上げるのは、誠実な行為とはいえないだろう。