返答―「歴史から学ぶ」ことの困難

http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060306
歴史家論争において、ヨアヒム・フェストはノルテの相対化の擁護のために、ヒトラーの犯罪はボルシェビキの恐怖に対する狂気的な対抗措置であったという仮説を持ち出し、共産主義の犯罪とナチズムの犯罪を因果的に結びつけました。finalvent氏が通州事件を持ち出すロジック―昭和の歴史における日本人のヒステリックともいえる行動にはこうした恐怖に向き合うことができないことにもあった―は、これと非常に酷似しています。voleurknknさんの言う「歴史から学ぶ」ことが、このようなロジックを生み出すことだとすれば、僕は全く同意することができません。「歴史から学ぶ」という言葉は、それ自体は確かに中立的です。歴史に対する「固有な現れ」への定位というポジショニングも、なんとなく脱イデオロギーに思えます。しかし、「実際はどうなっていたのか」がスローガンであった19世紀実証主義歴史学が、結局は「国民史」形成の先導者であったように、アイデンティティーのために歴史を学ぶものは(事実、finalvent氏はhttp://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060304/1141438137においてそう断言しているのですが)、歴史を学べば学ぶほど実際の事件(ルワンダ関東大震災…)から遠く離れていくことになります。なぜなら、彼らにとって歴史は手段であって目的ではない。
そも、町山氏が提起し、そして我々が議論してきたことは、「ポールさんのようになる」ことでした。そのとき、我々がその事件に対してシンボル並みの理解をしかしていないか、それともその事件について詳細に知っているかは、さしあたり関係がないように思います。もちろんシンボルにもいろいろあって、国民史のモニュメント的記憶のシンボルなど操作されたシンボルも多々あるわけですが、この件に関しては「ポールさんになる」ために、我々にはパンフレットに書かれた以上の知識が必要とされているわけではない。無論、そこを出発点としていろいろ学習するのは良いことだと思います。しかし、その場合も初心の「寄り添う」気持ちを忘れてはいけないと思いますし、ほんとうの実証には、一朝一夕の「非専門的」方法は無いことも認識しなければならないと思いますが。