返答―区別することと比較することの差異

http://killslider.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/1_4278.html
まず第一点として、僕はルワンダの虐殺と関東大震災朝鮮人虐殺を区別するべきではない、と言ったことは一度もありません。むしろ、それぞれが異なる「唯一無二の」事件であることを認識するべきだし、それを前提においてあのパンフレットの文章も書かれているのだ、と主張してきました。
逆に言えば、その事件の固有性こそが我々をその事件に対して寄り添わしめるのだ、と言えるでしょう。しかしその意味、つまり事件はそれぞれの固有性を持つ、という点において、あらゆる事件は同じであって、その同質性が問題になるとき―つまり、「ポールさんのようにならねば」という命題が主張されるとき―、ホテル・ルワンダに関するパンフレットの最後で関東大震災朝鮮人虐殺に触れることが可能になるし、またそのパンフレットが「日本人」宛てに書かれたとき、むしろ触れなければならない、ということになります。
それぞれの固有のあり方に思いを寄せる、というのは何かに寄り添うときには当然で、「生まれてからつねに生死の境をさまよい、盗みをしなければ生きていくことができなかった人」「一時的に生活に困窮し、ついそれに耐えきれず盗みをしたことがある人間」がいたとき、もちろんその固有性に応じて両者は「区別」されます。
問題はそのそれぞれ固有な事件・事象を「比較」するときです。盗人のたとえで言えば、後者に対して「前者よりも盗みを犯していないから安心せよ」と言うことが、果たして「寄り添う」態度として適切でしょうか。前者だけでなく、後者に対しても。finalvent氏以下、ルワンダ朝鮮人虐殺事件の差異を強調して、町山氏のパンフレットを批判する人たちがやってたのは、この「比較」行為でした。「ルワンダの事例は関東大震災の事例とこれこれこういうりゆうで異なる。以上。」だから何?結局相対化して終わり。
ちなみに、finalvent氏に寄り添う気持ちが無いとは思いません。ただ、事が日本人がらみの話になると、なぜか別の気持ちのほうが強く働いてしまうようです。逆に考えれば、氏は「他人事」にしか寄り添えないのかもしれないと思いました。でもそれって寄り添ってるの?さあ?