人間の都合

http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20080910
これを読んで、小田実の次のような一節を思い出しました。このころの小田実は本当にキレキレで、それはまあ社会主義というものがまだ元気だった「古きよき」時代の産物なのかもしれませんけども、それでもやっぱりぼくはこのころの小田実が好きです。

根本的な考えなおしが必要なような気がしてならない。つまり、「しくみの都合」から考えるのではなく、「人間の都合」から考える。「タダの人」のもつ根源的な平等からものごとをとらえる。そうしないと、差別はいつまでもかたちをかえて残り、平等も解放も、そして、ほんとうの意味での自由も達成されることはない。具体的に言いましょう。たとえば、お金のことを「しごと」とはまったく切り離したところで考えるのです。これこれの「しごと」をしたから、その「はたらき」でこれこれのお金を得て、これこれのくらしをするというのではなくて、人間のくらしにはこれこれのお金がいるのだから、どんな「しごと」につこうと、これこれのお金を得るのは当然のことだ、というふうに――いや、ある場合には、働こうと働くまいと、これこれのお金は人間のくらしに必要である以上得るのは当然だ。これは、社会保障の根本原理であるような気がします。働けない人間も人間であり、生きている以上、他の働く人間と同じだけのお金を得て、どこがいけないというのだろう。そこまで徹底してはじめて、恩着せがましくない、ほんとうの意味での社会保障が始まるにちがいない。ついでに、お金のいらない社会の具体的なイメージも少しは考え出されて来る。
これは、べつの面からことを見れば、人間は生きているのだから生きているのだという原理の確認ではないかと思います。この原理は平等――「タダの人」の根源的な平等の基本をかたちづくっている原理なのですが(「しごと」のために生きている、国家のために生きているという場合を同じ目的をもつ他人のくらしとの連関に入れてごらんなさい。たちまち、そこに出て来るのは、どちらがよりその目的に近いか、という問題だ)、その原理をよほどしっかりともっていないかぎり、人間のために「しごと」があり「しくみ」があったはずのものが、逆に、「しごと」のため、「しくみ」のために人間があることになってしまう。
私がこんなことを言うのは、何度もくり返して言うことになってしまうが、「しくみ」の力があまりに強大だからです。それは、人間のくらしのなかで人間がメシを食わなければならない、そのために「しごと」をしてお金を稼ぎ出さなければならないというアキレス腱をにぎっていて、そこを通じて人間のくらしをふりまわそうとするからです。よほど強力な歯止めをそこにかけておかないかぎり、「しくみ」の都合はどうあっても、「人間の都合」を圧倒し去るにちがいありません。それには、人間は生きているのだから生きているのだという原理をまず私たち自身のなかにうちたてておく必要がある。私たちは、まず、何より生きていて、そして、くらしているのです。はっきり力をこめて言っておきたいが、その事実を基本のことがらとして念頭においてことを考えないような政治は、「右」の政治であれ「左」の政治であれ、ねがい下げです。そこに革命という名前がついていようとも、そんなものは「革命のための革命」にすぎないもので、ほんとうの「世直し」は、「人間の都合」が「しくみ」の都合によってあまりにも踏みにじられるとき(現在の世の中のありようはまさにそうです)、人間として生きるために(これはパンのみの問題ではないことは、もうくり返して述べて来た通りです)人々が起き上るときにおこる。
小田実『世直しの倫理と論理』(岩波書店、1972年)p149-150