歴史学的に歴史家の仕事はどのように読まれるべきかという問題は、歴史家が歴史家としてほかの歴史家に対する態度のあり方に関わってくる。次にあげるユルゲン・コッカの「歴史家論争」についてのコメントは、この問題に対するひとつの解答である。長いよ。

ノルテの比較のテーゼが、いかにいい加減に、救いのない仕方で、また部分的に弁護論的に提起されているにもせよ、それがスキャンダルなのではない。本来の挑発は、むしろ次の点にあったし、今なおそうである。すなわち、ノルテは、一方での、時間的に先行する―内戦期およびその後のスターリンの大量テロルの形での―ボルシェヴィキーの「アジア的階級殺りく」と、他方での、時間的にそれに続いて起こった国民社会主義の「人種殺りく」との間に因果連関を設定し、後者を、存続する「アジア的」脅威に対する国民社会主義者の防衛反応、それも理解できなくはない、いわば予防的な防衛反応と解釈しているのである。この解釈によって、ユダヤ人の国民社会主義的大量殺りくに対して事後的に意味が、すなわち右に述べたボルシェヴィキズムに対する全ヨーロッパ的な防衛線という脈絡の中での意味が、約束される。疑いもなくこれは政治的に問題のある議論である。だがそれが破綻しているのは、政治的に問題があるからではなくて、史料に照らして、また史料の活用に際して適用さるべき歴史科学的な尺度で計って、受け入れ難いもの、つまり誤ったものだからである。まともな専門史家の中で、このテーゼを本当に擁護した人を、私は知らない。批判に対してノルテを擁護した歴史家たちは、彼の挑発のこの核心を注意深く避けている。同様に、戦う東部軍の視点に立つことを歴史家に要求し、このことを基礎に第二次世界大戦の終焉を叙述したアンドレアス・ヒルグルーバーをも、専門科学的な論証によって批判することができる。すなわち、当時様々に分岐していた視点を相互に比較対照し、あるいはできる限り包括的な今日の視点から当時の状況の多様な意味を把握することが、評価せんとする正義の要求であり、また歴史科学の作業の基本ルールでもあるのである。ヒルグルーバーはこの基本ルールに違反した。もちろんこうした違反を犯すのは彼だけではないことは強調しておかねばならない。ユルゲン・コッカ「歴史と啓蒙」未来社