上の引用を見ると、このような立場に立つコッカが、歴史叙述にナラティヴ性を求める風潮に対して激しい危惧を持つのは、ある意味で当然と言えるだろう。コッカはまた近年のドイツの歴史家たちの「日常史」への傾斜に対しても警告を発する。彼は「日常史」を、ある面での歴史の物語化であると指摘する。ドイツの「日常史」は全面的に同一であるとはいわないまでも、少なくとも間接的には、コルバン、ラデュリ、アリエスなどの、アナール第三世代の「心性史」家たちの影響は受けているといえる。だからこそ、この指摘は重要なのである。心性史、日常史ミクロ歴史学、これらは、ナラティヴな歴史との緊張関係にある。そのため、ギンズブルグはホワイトの批判をする必要があった。ホワイトの批判は基本的にはギンズブルグなど「ミクロ歴史学」ではなくて、アナール第二世代的な、「構造史」、「経済史」、「計量史」偏重の「社会史」に対して向けられたものである。その批判のいくばくかは、ギンズブルグもまた有していたものであって、だから彼はホワイトとの差異を説明しなければいけなかった。ちょうど第二世代の歴史家たちがマルクス主義歴史学に対して抱いていたアンビバレントさを、ナラティヴな歴史に対して彼もまた抱いていたのである。一方、ドイツの事情は少し異なる。ドイツでは「構造史」や「計量史」が歴史学の主流になったことはかつてなかった。「日常史」の提起は単に学問的な問題としてではなく、歴史学にたいする世間の要請が大きく反映している。ポスト・モダンの時代における、アイデンティティの根源を歴史に求める動きもそのひとつだろう。果たしてそれでいいのだろうか?