歴史学への敬意・無名の死者・「個人」であること

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318
酷い。というか、うーん、ここまで頭が悪いとは思えないんだけど。
関東大震災時の朝鮮人虐殺については、ググるなりopacなりで検索すればいくらでも専門家の著書や論文が見つかるはずです。で、「未曾有の災害の中で特定の民族をターゲットとした虐殺が行わ」れ、その背景には朝鮮人への差別的な社会風潮があったということなんて、誰も問題にしていないぐらいほとんど自明のことがらだと思うのですが。歴史的事件を取り上げるときに、それまでの研究から上がっている成果を踏まえず、いちいち一から議論を組み立てないといけないわけでしょうか。そうでは無いでしょう。

現状私が知った範囲では偶発としてとらえて妥当ではないか。

なるほど。「現状私が知った範囲」ねえ。finalvent氏がどれくらい関東大震災朝鮮人虐殺について勉強しているかは知らない。しかし、少なくとも氏が我々に提示しているのはただ一冊。しかも『日本人とユダヤ人』。山本七平って歴史学のひとだっけ。あとは、以下の謎論理か。

「未曾有の災害の中で特定の民族をターゲットとした虐殺が行われた」と、さらなるご冗談を。中国人も日本人も間違えられて殺害されているのを知らないのですか。

朝鮮人が虐殺のターゲットになっていたからこそ、「朝鮮人と間違えて」虐殺されたわけじゃん?はたしてこの程度の根拠と論理で、今までの一般的歴史常識を無視して、偉そうに歴史検証を要求できるその自信がどこから出てくるのか、僕には不明。
数の議論について。正確な虐殺数が最後の一人まで確定するまで、我々はその事件に対して語る言葉を持ち得ない、なんてことはありません。であるならば、当然アウシュビッツについても語ることは不可能になるからです。数の議論、それは、それが「固有の事件」「固有の死」に結び付けられる場合にのみ意味を持ち得るわけです。たとえば平和の礎や東京大空襲の名簿作成は、確かに尊い作業です。しかし、あらゆる虐殺において一人一人の名前が刻めるわけではない。南京事件もそうだし、もちろんホロコーストも。むしろ、20世紀に我々が経験したことは、「固有名を失った」圧倒的多数の無名の死者たちの前に、どう向き合えばいいのか、ということでは無かったでしょうか。そして、「民族」や「宗教」などのカテゴリーによって虐殺され、そのために固有名を永遠に奪われた死者の前に我々を立たしめる、という点において、ルワンダ関東大震災はリンクする。
http://may13th.exblog.jp/2830934
http://may13th.exblog.jp/2503915
「虐殺を引き起こさない/止めるシステム」を考えることは必要。しかし、それ以前に、我々が「個人」であることが重要なのではないか。「虐殺を引き起こさないために」「我々」は「彼ら」に心を許してはならないラインがあるのだという発想は、容易に「この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い」とリンクしかねない。我々が「個人」であることを止めては、そのシステムは逆に我々を虐殺に導くかもしれないと思いました。