告知:8/24(水)かっぺの逆襲@原宿デモ

今日になりましたが、19時半から「かっぺの逆襲」という怪しげな団体が原宿・渋谷でデモを行うそうです。
 
「かっぺ」って何?
デモに来ればわかるはず!(たぶん)
 
以下転載

http://d.hatena.ne.jp/Kappe/20110823/1314075863
日にち:8月24日(水) 
集合:19時00分
デモ出発:19時30分  
JR原宿駅表参道口、改札出て右側(代々木公園方面)・歩道橋の下

共催:かっぺの逆襲、ぶっ通しデモ実行委員会
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ガンバレ東北、ガンバレ日本。そんな言葉が街を飛び交っています。
しかし、中央から地方への押しつけという構造がある限り、
その言葉を現実が裏切り続けることでしょう。

原発を止めることができても、問題はそれでおしまいではありません。
これから先も、私たちは不都合なものを地方(あるいは外国)に押しつけて
暮らすのでしょうか?
原発、廃棄物、基地……もう地方に依存するのはおしまいにしませんか。

押しつけの構造は、声をあげなければ、何も変わっていきません。
今、東京に暮らしているという事実に葛藤しながら、ともに語り、
路上で訴えかけたい。
地方を下敷きにすることで、自分たちの生活を成り立たせている、
そんな仕組みを変えたい。

そんな思いをもつ仲間たちで集まり、アピールする場所を作りたいと思い、
デモを企画しました。
東京出身の方でも、外国人の方でも、趣旨にご賛同頂ける方であれば歓迎。
そして、かっぺよ、集まれ!
ぜひ、一緒に声をあげていきましょう。

 
ひとつだけ注意。
  
 

「かっぱ」ではありません!

過ぎ去ろうとしない無償化除外問題――「月刊イオ9月号」に寄稿させていただきました

 2010年に始まった高校無償化政策は、中井拉致問題担当相(当時)によるやおらの難癖をきっかけに、朝鮮学校を除外するというとんでもない差別をともなってスタートしました。それに対して大きな無償化除外反対運動が行われたにもかかわらず、結局2010年度の高級部3年生は、無償化制度の恩恵を受けられないまま卒業するということになりました。
 朝鮮学校に対する無償化除外は、最初こそ日本の大手マスコミでも取り上げられ、議論をよびましたが、2010年4月に制度がスタートし、除外が既成事実化していくにつれて、日本人社会においては関心が薄れていきました。そして3月11日の震災以降、朝鮮学校に対する無償化除外問題が、日本のマスコミで報道されることは皆無といってよいでしょう。
 無償化問題に限らず、沖縄の米軍基地問題など、いまだに解決がなされていない問題について提起しようとすると、今はそれどころではない復興だ原発オールジャパンだと返されるご時世です。しかし、これら3.11以前からずっとある問題を「過ぎ去った」ものにしてよいはずはありません。どういうことでしょうか?これについては、「月刊イオ9月号」のブロガーズ@ioというコーナーに文章を寄稿させていただいたので、そちらを読んでいただければと思います。ブログのタイトル「過ぎ去ろうとしない過去」の由来と意味について書いています。その中でも書きましたが、加害当事者にとって「過ぎ去ろうとしない過去」は目障りなものですが、被害当事者にとってそれは「過ぎ去るはずがない」ものなのです。
 「月刊イオ」を購読していてもわかるように、朝鮮学校に対する高校無償化除外については、いまなお権利のために戦う人たちがいます。いくら日本人社会がそれについて「過ぎ去った」ものにしたがろうとも、それはけして「過ぎ去らない」だろうと確信しています。
 一方で、いままさに「過ぎ去ろうと」している問題もあります。

 日本国において、外国から来た難民申請者はいっさいの権利剥奪状態にあります。この難民たちも、いっさいの権利を剥奪されたまま、それが回復されることもなく、日本から文字通り去ろうとしています。私は直接の支援者ではありませんが、しかしこの問題――つまり日本がいかに外国人に対して差別をおこなっているかという問題――については、小数の民間支援者だけでは限界があるということを強く実感しました。
 そのようなわけで、この難民たちは日本から離れてしまいますが、一方でいまだ日本で難民申請を行っている人たちもたくさんいます。この問題を「過ぎ去った」ものにしないということが、わたしたち日本人の責任ではないでしょうか。
 この難民たちにとって、第三国への出国は問題の解決を意味しません。ほとんどの問題は解決されていません。上記の支援者のブログでは、少しでも多くのお金をと、カンパを受け付けています。私も小額ですが振り込もうと思いますが、みなさんよろしくお願いします。
 
(原案:つねちゃん 作画:ほくしゅ)

<剥き出しの生>と非常事態

 3月11日の夜、菅直人首相は大震災の発生後、初めての首相会見を開いた。わたしはそれをテレビで見ていたのだが、強烈な違和感をもったことを覚えている。会見の内容自体は、震災直後に首相が発するコメントとしては無難なものだったと思う。問題は、その呼びかけ対象である。かれは、終始「国民」ということばを使っていた。「住民」でも「市民」でも、いろいろ選びようがあったはずなのに、である。少なくとも、東北地方に一人の外国人もいないなんてことはありえない。ぼくはそのうち外国人へのフォローがあるのだろうと見ていたのだが、結局最後までかれは、「国民」に呼びかけるのみで、それ以外のことばは一度も用いられなかった。
 菅首相のコメントに呼応するかのように、次の日からあらゆるマスメディアでは「国民」あるいは「日本」の文字がおどった。東北地方で起きた大震災および津波の被害は、何の留保もなく「(日本)国民の危機」と同一視された。このムードについて多くの人が戦時下を連想させたのは偶然ではない。「がんばろう日本」のスローガンのもと、まさに「国難」に立ち向かうために、「国民」の大動員がはじまったのだった。
 
 福島での原発事故に端を発する反原発運動の拡大は、この「がんばろう日本」の諧調を乱すものであったといえる。事故の実態が明らかになるにつれて、また放射能が目に見えるかたちでわたしたちのもとに迫ってくるにつれて、わたしたちは「恐怖」を実感したのだった。その「恐怖」とは、わたしたちが<剥き出しの生>へと転落したことへの「恐怖」であったのだ。「放射能は誰もサベツしない」というランキン・タクシーの歌詞は、この「恐怖」を正しく象徴している。わたしたちは政治的主体としての「国民」ではなく、いっさいの権力を剥奪された、ただ生きているだけの存在であり、生きるがままに、そして死ぬがままにされている。それはまさに真の意味で根源的な恐怖であり、それが、「国難」への「自粛ムード」に抗して、多くの人が反原発運動へと参加した理由であろう。
 
 だが、<剥き出しの生>への自覚は両義的である。「危機」に対する意識は、「がんばろう日本」の「国難」ムードよりもむしろ高まるのだ。わたしたちは例外状態のなかにいるという自覚のなかで、「決断」への志向が強力になる。すなわち「例外状態に決定を下すのが主権者である」というカール・シュミットのテーゼが浮上する。いっさいの権力が無効化される<剥き出しの生>において逆説的に、強固に結びついた主権的権力の共同体が誕生するのである。
 そのようないわば「生への衝動」において誕生する共同性は、しばしば男性的な、ホモソーシャルな関係性を伴ってたちあらわれる。その意味において、右翼はすでに勝利しているといってもいい。たとえば1916年の西部戦線を、1938年のマドリードを、1940年代の南太平洋を、あるいは1969年の安田講堂を想起してもいいだろう。「危機」の中で、階級的に、政治的に、文化的に、対立しあっていたものが手を結び、団結する。右であれ左であれ、あらゆる運動が最高潮に達したとき得られるカタルシスを、わたしたちは目的それ自体と混同して志向してきたのだ。
 
 しかし、これは誤謬にすぎない。わたしたちは現実に一切の権利喪失状態に陥ったわけではなく、重層的に決定された社会的な権力関係は維持されたままである。全人民の連帯を強調していた新左翼運動のなかで、バリケード内の炊事洗濯が女性に押し付けられていたことは有名である。3.11以後においても、わたしたちすべて(少なくとも日本列島に住んでいたわたしたち)が3.11以前に持っていたあらゆる権力性を剥ぎ取られ、<剥き出しの生>へと追い込まれたというわけではない。「反原発」が(右も左もないだろ!の人が言うように)「非常事態の克服」のための運動であるとするなら、福島以前から「非常事態」はあったということになる。多くの反原発運動は、福島原発の事故への対策および補償の要求を行っている。それは当然のことだと思う。しかし論理的には、反原発の要求と事故対策の要求は切り離しうる。原発を推進しつつ、事故は事故としてしっかりした対応を求めることは可能だし、また脱原発が達成されたとしても放射能は残るからだ。
 なぜ今回の反原発の問題で「非常事態」が叫ばれるのか?それはまさに自分の身に放射能が振りそそいできている事態と、原発の本質的な問題が混同されているからである。もっといえば、原発問題の本質と、「非常事態」は実態として何のかかわりも無い。「非常事態」とは、実体として存在するものではなく、宣言されるものだからである。原発問題の「非常事態」性は、3.11以後、主権的に決定されたのだ。
 
 では、主権者とは誰なのか?非常事態を宣言する者は誰なのか?5月末、新宿で沖縄の普天間基地移設問題と高江ヘリパット建設問題に関するビラを配っていたとき、とおりすがりの人がビラをみて「今はそれどころじゃないだろ。原発問題だろ」とはき捨てた。しかし、「それどころじゃない」のは誰なのだろうか?福島から300kmの東京では、放射能の危険性は確かに高い。しかし、一番近い原発でさえ1000km以上離れている沖縄においてはそうではない。高江や辺野古で昼夜座り込みを行っている人たちにとって、「それどころじゃない」のはどちらなのだろうか?
 また、在日朝鮮人を含む外国人の権利や野宿者の権利は、震災以前から「それどころじゃない」状態に追い込まれていた。朝鮮学校の無償化除外は昨年から続いており、自治体の補助金さえも打ち切られはじめている。入国管理局は地震のさい収容者を部屋に閉じ込め鍵をかけた。被災者への炊き出しに野宿者が並ぶとフリーライダー扱いされる。

■ここに本質がある
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110627/p1
 つまり、原発事故が起きようが起きまいが、朝鮮学校は国家や社会による排除と差別の暴力にさらされてきたわけであり、事故以後は、その暴力に「放射能」(また、震災のによる被災)という新たな内実が付け加わっただけだと言える。
  同様のことは、福島など原発のある地域に住む人たちについても言える。この人たちは、これまでもずっと国家や社会によって、排除の対象とされ、見えない存在のようにされてきたのだ。平時や事故発生時における危険という、生の重要な現実が、否認されてきたからである。
 この人たちは、その存在を、社会全体の論理のために常に軽視されてきた。
 そしてこうしたことが、原発をめぐる問題の、まったく本質なのだ。

 放射能は誰もサベツせず、あらゆる人に降り注ぐ。したがってわれわれはすべて<剥き出しの生>のなかにありひとつなのだ、という無邪気な発想のなかで、じっさいにはこれまでと変わらず排除されている人々をさらに不可視の存在にしていくのである。放射能はサベツしないが、わたしたちの社会がサベツする限り、原発事故の被害は一様ではない。福島と東京、東京と沖縄、日本人と外国人、健常者と障害者、男性と女性とセクシャルマイノリティ、屋根がある人と無い人…、現にあらゆるところであらゆる排除が行われているときに、「右も左もない。なんでもあり」と誰がいえるだろうか?まして、日本人であり、男性であり、ヤマトであり、和人であり、健常者であるわたしがそれを言っていいのだろうか、という問いが、おそらく日本人であり、男性であり、ヤマトであり、和人であり、健常者であろう人においていっさい存在していないようにみえるのは、大きな問題ではないだろうか。「なんでもあり」で面白がれるのは、またひとつの特権なのだ。
 壱花花さんが描いた「大同団結」のイラストはこの状況の見事な風刺である。
http://18787.main.jp/fuushi.html
いったい、かれの右手と左手はどちらが「非常事態」なのだろうか。右手と左手を「それはそれ、これはこれ」といえるのは、誰なのだろうか。あなたが手を差し伸べるのは「非常事態」だからではない。右手と左手のどちらが「非常事態」か、手を差し伸べられたあなたが主体的に決定しているのである。
 わたしは、手を差し伸べない。
 

6.11新宿中央公園を中心とする経緯の確認

 なぜ針谷氏が登壇すべきでなかったのかについては会のブログ内において何度も詳しく明快に書いてあるので、ここで繰り返し書くことはしません。わかるまで熟読してください。
 ただし、問題意識を共有するしない以前に、経緯の認識が「なんでそうなるの!?」というものばかりで、非生産的な議論を生んでいる原因の一端はそこにあると思うので、関係者のひとりとして経緯にたいする見解をちゃんと書いておきます。
 
 経緯に対する典型的なまちがいは、次のブログにあらわれています。

ヘイトスピーチに反対する会の行動を支持しません
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110619/1308487730

 まず、常野さんの発言もぼくの発言も、会としての声明ではなく、6/9の時点の個人的な声明です。これに問題があると感じたならば、常野あるいは北守を批判すればいい話であって、会とこれらの発言を直接結びつけるのは意味不明です。会の公式声明は別にちゃんと出しているのであって、「ヘイトスピーチに反対する会」を問題にしているのに、なぜそちらを参照しないのでしょうか。
 ぼくがこの事実を知ったのは確か木曜の夜であって、いくつかtwitter上でコメントをしたあと、反ヘイト会のMLに行動の提起をしました。主催者に公開質問を行おうとしたのだけれど、どうせやるなら会としてやったほうが意味があると思ったからです。ま、そこで公開質問だけじゃなくて直接行動もしたいという意見が出たりで、なんやかんや調整した結果、公式の声明*1が出たのは金曜の夜です。
 針谷氏の降板がHP上で発表されたのはそれから30分後くらいだったでしょうか。この時間内で主催者の方針がかわるとはちょっと考えられないので、針谷氏の降板は反ヘイト会が声明を出す前にすでに決定していたと考えるのが妥当です。
 すでに明らかになっているように、針谷氏の登壇を問題視していたのは反ヘイト会のひとたちだけではありませんでした。たとえば園良太さんは主催の一人として反対したことを表明しています。
http://twitter.com/#!/ryota1981/status/81574868679794688
この間、園さんから会に対して何らかの意見があったり、逆に会として彼に何かを求めた事実はもちろんありません。
 また、@ANAFUZZ 氏のツイートをみると、反ヘイト会に必ずしも同調しないメンバーからも今回の件に関して異論が続出していたことがわかります*2。ネットで公的な声明がなくても、主催にスタッフとして関わっていた友人たちに話を聞くと一様に「寝耳に水だった」「会議にかけられていたら反対していた」と述べています。また、針谷氏降板が決定したあとになってはじめて、この事件を知った人さえいます。
 針谷氏降板の理由は、主催者が沈黙している現在(6/20)において確かなことは分かりません。しかし、形式的にさえ合意形成がなされず、HP上でやおら発表されたことに内外から反発が出る中で、針谷氏登壇を決定したひとたちが(おそらく思いつきだったのでしょう)何ら説得力のある説明ができず、降板に至ったと考えるのが妥当でしょう。
 いくつかデモ主催にかかわり、そのプロセスや議論を経験してきた立場からすれば、今回のことはちょっとありえない事態といわざるをえません。デモの事前集会で誰をよぶかはロフトの平野悠氏に丸投げだったと聞いていますが、その平野氏はこんなことを言っています。

http://twitter.com/#!/yu_hirano/status/81299925501095936
今回の一連のデモの計画はヘイスピの主催でもなんでもない。「ロフトと素人の乱」の共同企画なのだ。

反へイトの会ははじめから会として関わっていた事実はないので主催じゃないのは当然ですが、”「ロフトと素人の乱」の共同企画”とはどういうことでしょうか。HPを見ると*3素人の乱の名前はあるものの、”「ロフトと素人の乱」の共同企画”であることについていっさい説明されていません。わたしたちの友人も含め準備段階から主催にかかわっていた人で、「ロフトと素人の乱」両方の関係者ではないひとはたくさんいました。デモの主催者とはふつう準備段階から会議に出席し、スタッフとして関わっていた人をさすのだと思います。まして、ロフトの平野氏のツイートを見ると、彼が事前・事後の会議に出席していたようには思えません。
 デモを一緒につくっていく仲間を軽視し、”「ロフトと素人の乱」の共同企画”だからと唐突に決定されたことに対する内部からの反発を、”左翼が任務を放棄した”と言ってしまうような人物に*4、集会で誰を登壇させるかということを一任させてしまったことが、まずもって問題であったということ。今回の事態をまねいた「直接的な」理由は、そこにつきると思います。こんなのはオートノミーでもシアトル以降でもなく、ただ功名心に走ったバカがいたということにすぎません。
 
 さて、針谷氏降板を知ったぼくは(問題視しておきながら)ちょっとびっくりしましたが、まあそりゃ内部から反発がでないわけがないよなあと思いつつ、まずはこの決定を評価し、当日どうするか改めて話し合いました。もともと、針谷氏が登壇したばあいは離れたところでアピールしつつビラまきをし、降板したばあいはふつうにデモに参加しようってことになっていました。で、今回は後者の立場で行ったわけですが(友人の話も聞きたかったし)、そこで起こったことは会の報告にあるとおりです。まあ、先ほど紹介したブログに反論しておけば、まず日の丸君の登壇自体がサプライズだったこと、そして、会が批判されたことに対して抗議したのではなく、報告にもあるとおり、日の丸を掲げて壇上にあがったことに対して、それからまさに「俺は本当を言うと日の丸も君が代も反対なんだけど、今回だけは日の丸を掲げさせてもらう。そんなふざけた話があるか」というふざけたことを言っていたことに対して抗議したわけです。普段は日の丸に反対ってことは日の丸がいかに悪いかを知っているわけで、にもかかわらず(自分自身のみの意志で)掲げたわけですから、より問題があると言わざるをえません。
 集会がおわったあとは、それぞれ次の予定があるということが分かり、会(有志)としての行動はとりあえずそこで終了しました。数人でデモと並行しつつアルタ前まで向かい、5時くらいにはそれぞれ別の場所に行きました。
 
 公開質問および当日の行動について個人的な見解を書いておくと、この事態を問題化し、直接行動をおこなったことに対していっさい反省はありませんが、当日行ったことについては、柏崎さんのアピールがあったとはいえyoutubeでみるとやはり分かりにくかったと思います*5。サプライズに対するサプライズだったので、ということもありますが、せめてビラは持っていくべきでした。そういう反省はあります。
 大同団結の論理が、自称右翼、自称左翼、自称ノンポリに関係なく、「日本人・男性・健常者」のマチズモによって駆動されているなかで、つまりマジョリティが足を踏み続けたまま「危機」を根拠に足を踏みつけられたマイノリティを強引に包摂していくなかで、それに対する異議申し立てを、また別のマチズモにならないかたちでどう構成していけるのか。そこにおける直接行動や論理の立て方はどのようなものか、そういうことを話あえるならば、ぜひやりたいです。
 ただし、議論は出尽くしているのに、この期に及んでなお針谷氏の登壇そのものが問題と思えない人に対しては、もうどうしようもない気しかしませんがね。

*1:正確には会の声明ではなく有志の声明です。

*2:たとえばhttp://twitter.com/#!/ANAFUZZ/status/80113680599093250

*3:http://611shinjuku.tumblr.com/

*4:スタッフが足りなかったら自分でやればいいことです。平野さんが自ら、デモ隊と車の間に入ってこようとする警察に対して抗議をしてください。

*5:ただまあ、分かりにくさを問題にするなら、スタッフでもないのに自警団っぽくふるまって「キチ○イ」を連呼していたひととか、日の丸君や、彼を煽って壇上にあげた鈴木邦男についても問題にすべきだと思いますけどね!

まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話

 2月のエントリ「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」は、本編があのような結末をむかえたこともあって、大きな反響を呼んだ。もちろん、あのエントリは予測でも願望でもなく、魔法少女の理念をただ著しただけにすぎない。しかし、内心の予想以上にあのエントリとぴったりくる結末だったのをみて、本人が一番驚いているとともに、ベンヤミンと『まどか☆マギカ』の相性はよいということを、ますます確信するに至った。
 ところで、人気番組終了の常なのだが、最終回以後、様々な感想がネット上に飛び交っている。満足した者、満足してない者、それぞれいるだろう。あの結末は納得がいかない、という人がいるのはあたりまえのことである。ひとにはそれぞれ価値基準があるのだから。しかし、あのわかりやすい最終回を見て、なお見当違いな解釈をおこなっている人びとも多く見られる。それはたぶんにドグマ的であり、「誰かが幸福になるには誰かが不幸にならなければいけない」という信仰の強さを改めて感じさせられた。もちろん、『まどか☆マギカ』はそのような話ではないのである。
 このエントリは、2月のエントリの補遺として読んでほしいが、じっさいの例を多く取り入れたことで、より分かりやすくなっているとおもう。また、この着想の少なからぬ部分は、友人である常野雄次郎に負っている。このエントリの補遺、つまり補遺の補遺として、「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」「反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論」「ゆめ」あたりを参照していただけると、より問題意識が鮮明になると思う。たとえば、「テラ豚丼」エントリを読んでいただけると、(しばしば混同されている)まどマギの結末と単なる自己犠牲称揚の物語との差異が鮮明になるだろう。
 
 ベンヤミンの得意とするモチーフに、「背中のまがったこびと」の話がある。そのこびとは歴史的唯物論という人形を操っている、と彼は『歴史哲学テーゼ』の冒頭で述べる。そして、わたしたちがそのこびとを使いこなすことができれば、歴史的唯物論は常に勝利することになっているのだ。
 『まどか☆マギカ』の魔法少女すべては、つねにすでに救済されている。しかしその救済は、わたしたちがこのこびとをうまく使いこなす限りにおいて正しく見通すことができる。むろん、わたしたちは『まどか☆マギカ』の物語に対して、自身の価値観において批判を加えることはできる。しかし、この物語をひとつのアレゴリーとして読むならば、その解釈はおのずと一つに収束するはずであると思われる。
 まどかの願いはただ一点、あらゆる魔女の消滅である。それ以上でも以下でもない。まどかは、すべての魔女が消滅した世界の運命に責任を負わない。世界の摂理が――それはしばしば「作者」と呼ばれる――魔女のかわりに魔獣を生み出したとしても、それはまどかが感知するところではない。この点で、まどかを全知全能の神、世界の統治者に模した解釈は間違っている。確かに、まどかを神のアナロジーで捉えることは、その後の説明を容易にする。しかし、その現れは世界の構築者としての神ではなく、救い主としてのそれであって、あの結末を不十分であるとする不満の多くは、この混同にあるのである。個人的には、まどかは「神」というよりも「英雄」のモチーフが適当ではないかと考えている。
 まどかは、ホロコーストの悲惨を知らないし、非正規雇用の悲惨も知らない。両親の愛を存分に受けて育ち、またさやかのように失恋の痛みもない。彼女がその眼で見たのは、魔法少女の悲惨であり、魔女の悲惨である。キュウべえは、それが歴史の最善であると彼女に教える。人類の進歩は彼女たちの犠牲によって達成されたのであり、そのような犠牲は世の中にいくらでもある。もしその悲惨を許せないとするならば、かのじょは牛や豚を食べるべきではない。
 キュウべえが試みたのは、自分自身の無力さをまどかに対して刻印づけることにあったのであり、彼女の内面に一つの法を措定することである。それが、神話的暴力とよばれるものの力なのである。キュウべえの口から語られる人類の歴史は、キュウべえによって因果付けられた道徳物語としての神話であり、それまでの法の説明であるとともに新たな法を打ち立てるものでもある。この法は、たとえばエネルギーなんちゃらの法則といったものとはなんら関係はない。
 だが、まどかは願いによってその法を破壊するのである。彼女は、世界の摂理に対して考えるのをやめる。そして、目の前の魔法少女と魔女の悲惨だけを見る。目の前の悲惨は悲惨であるがゆえに、救済しなければいけない。彼女は魔法少女と魔女を救いたかったのであり、そしてやりたかったことをやったのである。母親やほむらの制止があったとしても。そして、かのじょたちがどれだけ自分を愛しているか知っていたとしても。まどかは自分自身以外のものを言い訳にせずに、自分のやりたいことをやるのである。かのじょは、どのようなダイタイアンも提示していない。まどかの願いが、それ以外の世界の摂理に関係していたという説には一切根拠がない。
 なぜまどかだけがその破壊を行いえたのかはわからない。ほむらによって溜め込まれたまどかの魔法少女としての力、まどかの願いの過不足なき適切さ、様々な仮定をたてることができるが、実際のところは不明なのだ。しかし、現実にまどかは破壊を行い得たのであり、その時間と空間を超越した破壊が、すべての魔法少女をつねにすでに救済するのである。
 
 1960年代の公民権運動の発端は、ローザ・パークスの逮捕によるバスボイコット運動にあることはよく知られている。1955年の12月、ローザはバスの白人優先席に座った。しばらくすると白人が乗ってきたので運転手は彼女に立つように命じた。しかし、ローザは運転手の命令に従わず、警察に逮捕されることになった。
 今日では、ローザの行為は正義に基づく英雄的な抵抗であるということになっている。だが、それはいまだからこそいえることだ。1950年代の当時では、彼女はその場でリンチにあってもおかしくはなかった。じっさいのところ、ローザと同じような行動をして掴まった黒人たちはたくさんいて、かれらかのじょらは、その抵抗が(部分的には裁判で勝利するなどのこともあったものの)全国的な運動に結びつくこともなく、ただ酷い目にあっただけで終わっている。ローザ・パークスの名は教科書に載っている。しかし、その無数のひとびとの名前は、今ではほとんどの人は知る事がない。
 いま、わたしたちが1950年代当時にいるとする。ある黒人の友人が、目の前で差別に対して勇気ある抵抗を試みたとき、わたしたちはかれかのじょにどのような言葉をかけるだろうか?わたしたちは、その抵抗に何の意味もないことを知っている。そして、かれかのじょらはその代償として死をも覚悟しなければいけないことを知っている。常識的な判断であれば、その黒人の行為は無謀であり、バカげたことであり、その黒人自身のことを想うならば、一刻もはやく止めさせなければいけない。
 しかし、2011年のいまでは、わたしたちは常識的に有り得ないことが起きたことをしっている。一人の黒人の無謀な抵抗が、公民権法を制定させたことを知っている。つい10年前まではSFの世界でしか有り得なかった黒人の大統領が今誕生していることを知っている。もちろん、オバマは悪いことをたくさんしている。イスラエルパレスチナ占領を支援し、沖縄に基地を押し付けている。そして、オバマが大統領になったからといって、黒人の生活環境は白人にくらべていまだ低いままである。とはいえ、ありえないはずのことがありえている。そのことはゆるぎない事実である。
 「今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。」と常野さんは言う*1ローザ・パークスは、別に自分がボコボコにされて殺される可能性について分かっていなかったわけではない。ただ、「屈服させられるのがイヤだった」と彼女は言っている。彼女は、その自由を行使したのだ。
 ローザの行為が歴史を動かしたのはいまは誰もが知っている。では、歴史を動かさなかった無数のひとびとについては?かれらかのじょらの抵抗は無駄だった。しかし、「かれらかのじょらの抵抗は無駄だった」とわたしが言及した時点で、かれらかのじょらの抵抗もやはり、わたしたちの記憶に刻印づけられるのではないか?だいいち、このエピソードだって、わたしがどこかの本で読んだことの引用であり、それはもっと多くの人に知られているのだ。ローザ・パークスが歴史を動かすことによって、無名の抵抗者たちは歴史の廃墟から姿を現している。しかし、それはかれらが抵抗を行った時点で、つねにすでに約束されていたものなのである――わたしたちが、希望について確信している限りは。
 
 まどかが救済したのは、人間の「自由」である。魔法少女たちは、その願いが自分自身や周囲をかえって傷つけることになると知っていたかもしれない。しかし、それでも願わずにはいられなかった。自分のために、あるいは、誰かのために。そのことによってたとえ、運命の神話的暴力が彼女らの中にソウル・ジェムを植えつけようとも――つまり、法を強制的に挿入しようとも――、「願う」という崇高な自由までは奪えないのだ。ゆえに、魔法少女の願いが、絶望によって魔女へと転落するその瞬間、まどかはそれを掠め取る。あの『ファウスト』の最後の場面、天使たちがファウストの魂をメフィストフェレスから掠め取ったように。
 『ファウスト』における魂の強奪が契約の破壊として唐突に行われたように、まどかの救済も魔法少女-魔女システムという法の破壊として行われている。しかし、この救済は時間と空間を超越しているがゆえに、「いつ」起ったのかを言うことはできない。救済はつねにすでに起っている。ゆえに、魔法少女たちはあらかじめ救済されていたのである。
 
 巴マミの台詞で3話のタイトルでもある「もう何も怖くない」は、その後の彼女が辿った運命から、アイロニカルな言葉として周知されている。しかし、最終回を経た今では、この言葉は別の意味をともなってくる。ふたたび公民権運動から引用すれば、それはマーティー・ルーサー・キングのことばと比較されるべきだろう*2

 誰でもそうであるように、私は長生きがしたい。長寿には価値がある。しかし今や私はそれには関心がない。私はただ神の意思を行いたい。そして神は私が山を登ることを許された。そして私は見渡した。そして私は<約束の地>を見た。私は皆さんと共にそこに行くことはできないかもしれない。しかし今宵、皆さんには知ってもらいたい。我々は人民として<約束の地>に到達するのだということを!
 だから今宵、私は幸福である。私は何の心配もしていない。私は誰も恐れてはいない。我が目は主の到来の栄光を見たのだ!

じっさい、この演説を行った次の日にキングは暗殺されるのであるから、しばしばこの演説もアイロニカルな意味に解釈されることがある。だが、それが問題なのではない。常野さんはこう言っている。

ここでキング牧師は「私は山の頂に立ったから」もう何も恐れていない、と言っている。「我が目は主の到来の栄光を見たのだ」と。今日からすると、キング牧師アメリカ史上最も偉い人、ということになってるから、それを予知させるなんて神様はスゴイね、とも思えるし、キングがブッシュにも祭り上げられる一方で大半の黒人の状態はむしろ悪化してるから結局大したことなかったとも思えるかもしれない。しかしキング牧師は何も形式的な差別が解消される未来を予知しようとしたのではないと思う。
 そうではなくて、彼は確信したのだ。私はタバコが吸いたいのだと。「主の到来の栄光を見た」というのはそういうことだと思う。

巴マミの台詞は、まどかが魔法少女になると決意し、自分が一人ではないと確信したときのものであり、はじめて自分が魔法少女であることを肯定したときにおいて発せられた。それはつまり彼女がまどかの自由を確信したときであり、自分自身の自由をも確信した瞬間である。もちろん、まどかが順調に魔法少女として成長し、自分がそれまで死なない保障など彼女にはなかった(じっさい、次の瞬間には死ぬのであるから)。だが、彼女は確信したのである。まどかの未来を。ゆえに、「もう何も怖くない」のである。そして、すべての魔法少女があらかじめ救済されていたのであるから、これを二重の意味において、つまり救済が約束されているがゆえに「もう何も怖くない」のだとも解釈するべきである。
 
 冒頭にあげたように、『まどか☆マギカ』はアレゴリーとして読まれるべきである。それは、あらゆる時代、あらゆる場所における、人間の自由についてのアレゴリーである。法に対して新たな法を提示するのではなく、ただ自由を行使すること――つまり法にたいして反逆することはわたしたちに常に開かれている。もし、魔獣によって悲惨が生み出されているとしても、救済が行われた地点から見れば、その悲惨はあらかじめ救済されていたことになるだろう。そしてその視点は、まどかの救済とわれわれの視点が接続することによって、捉えることができるのである。

ユダヤ人には、未来を探しもとめることは禁じられていた。その一方で、立法と祈祷とが、かれらに回想を教えている。回想が、予言者に教示を仰ぐひとびとを捕えている未来という罠から、かれらを救いだす。とはいえ、ユダヤ人にとって、未来は均質で空虚な時間でもなかった。未来のあらゆる瞬間は、そこをとおってメシアが出現する可能性のある、小さな門だったのである。

ベンヤミンは亡命生活の末ナチズムに追い詰められ、1940年にスペイン国境沿いの村で自殺した。死の直前にアドルノの元に草稿が送られ、かれのもとで出版された『歴史哲学テーゼ』の最後を、ベンヤミンはこの言葉で締めくくっている。
 わたしたちは、回想のなかでちらりと現れる過去のイメージをとらえる。そのなかに「背中のまがったこびと」はいるのである。しかし、わたしたちはまだ、あらゆる過去を引用できない。だが、一瞬一瞬に含まれるかすかな救済の痕跡に、奇跡の可能性を見出す。その無数の痕跡のひとつが、もしかしたらまどかの救済であったかもしれない。わたしたちがそれを確信するならば。
 
参考文献

東浩紀と宇野常寛が、言論人の「責任」について何を語れるっていうの!?

東浩紀宇野常寛とスネオ主義の臨界点
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20110416/1302962668

 あずまんと宇野は既に燃料棒の99%が損傷したとの噂。
 まあid:Cunliffe先生のいうとおり、「ポモ村の中でなら好きなだけやってろ」という話であるのだが、いちおう、松平さんがやっている『新文学03』という同人誌に書いた『ゼロ想』批判を抜粋しておく。

 宇野は「物語」の内容の優劣や正しさを考えるのは意味がない、という。さらに南京大虐殺があったかなかったか好きなほうを信じればよい、と歴史修正主義まで容認する。これは、いかにポストモダン相対主義者といえど言わなかったことである。日本には何人か見受けられるが、それは恐らくガラパゴス的な進化の賜物なのだろう。ともあれ、宇野がそう主張する根拠は当然「大きな物語」が崩壊し、それ自体完結した「小さな物語」を比較する尺度がないからである。
 だが、たとえば在日朝鮮人を見かけたら石を投げつけるべきであるという信念を持ち、実際に投げつける人がいて、その集団が他の集団によってそれを妨げられないほど大きくなり現実的に驚異となったとしても、宇野理論ではそれを非難できない。設計主義によって構築された社会システムがそのような行為を妨げる?よろしい。ではそのシステムの構築にあたっては、少なくとも他者に石を投げてはいけないという価値については共有できているようだ。われわれは宇野が何と言おうが価値についての尺度をいまだなお共有することができるし、価値を吟味することは意味がないどころが、それをしなければわれわれの生活は成り立たない。彼がいえるのはせいぜい「価値を問題にしてはならない」ということであって、それはそれ自体がひとつの「価値」なのである。
 なぜこのようなことを述べなければいけないかといえば、宇野の議論があまりにもこの点において頑なだからである。彼は、「決断主義」においてその決断には責任が伴うことを認めている。何を信じればいいか分からないというセカイ系の前提を引き受けることによって決断主義的想像力は台頭したという。

 セカイ系決断主義に克服されたとき、そこにあったものはセカイ系的な前提――社会像の変化によって、確実に価値のあること、正しいことがわからなくなり、何かを選択すれば誰かを傷つけ、自分も傷つくこと――に対する否定ではない。むしろ肯定であり、前提としての徹底した共有である。徹底してセカイ系的前提を受け入れたからこそ、生きるためには(たとえ無根拠でも)何かを選択し、決断し、その責任を負わされなければならないという想像力が台頭したのだ(p135)。

ところが、決断にともなう「責任」とは何ぞやということについては、宇野はこののち語ることはない。決断と責任をセットで考えることは、当たり前のことである。ところで、ある決断をすること――ここではある「物語」を信じるという決断をすることに限定しても構わないが――に伴う責任は、つねに自分にだけ負うものではない。南京大虐殺がなかったという「物語」を信じる者については、南京大虐殺の犠牲者や生存者において責任が問われる。責任―responsibility―応答可能性の問題を考えると、当然そうならざるをえない。現代思想の研究者である高橋哲哉は、この応答責任について以下のように説明している。

 たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがあるわけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいてください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えてください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきません。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」というわけですから、わたしは気づいたときにはそれを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いてしまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応えるか、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。
 「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることです。(…)「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのかぎり、その選択は私の自由に属するということもできるでしょう。
(…)私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではないのです。(『戦後責任論』p.33-34)

 たとえば日本国民である私が南京大虐殺があったと信じたとしても、そのことによって即座に中国の人々に対する謝罪義務や賠償義務が発生するわけではない。ところが、私が南京大虐殺を信じるにせよ信じないにせよ、応答責任の問題からは私は逃げることができない。「他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではない」のである 。この他者との関係、責任の引き受けにおいて、「物語」の内容はけして入れ替え可能なものではない。他者との関係は、自分が何を信じるかによって変わってくるものだ。もちろんコテコテの独我論者ならば他者の存在をそもそも認めないのかもしれないが、少なくとも宇野は他者の存在を認め 、また「決断主義」の他者回避の問題について批判的であり、倫理をめざしているはずである。にも関わらす、彼は決断に伴う責任の問題から、執拗に逃れようとしているようにみえる。責任に目を向けたとたん、「物語」の内容、「物語」の価値評価の問題に踏み込まざるをえない。宇野は「物語」の価値評価について考えることは意味がないと繰り返し述べるが、穿った見方をすると「物語」の価値評価をしてほしくない/されたくないのだ、という彼の個人的なメッセージにも思えてくる。その点で、宇野が批判したセカイ系の引きこもり的想像力のほうが、他者との関わりにおいてより倫理的なように見える。何もしないという選択(それは「決断」であると宇野自身が認めている)は他者の存在を認識した結果生じたものだからだ。セカイ系は文字通り世界に開かれているのに対して、(個々の島宇宙が、ではなく)決断主義という考え方それ自体が世界から目をそむけた「引きこもり」の哲学といえる。
(北守「『ゼロ想』への葬送―あるいはテンプレだらけの宇野常寛批判」『新文学03』より)

「震災に積極的に介入する言論人」も「モノポリーをするサブカル批評家」も、ポストモダン相対主義に依拠した無責任主義を貫いているかぎり、どっちもどっちとしか言えない。
 

平和に生きる権利

 「4.10高円寺 原発やめろデモ」に行ってきた。
 15000人ものデモに参加するのは初めてで、とにかくその熱気の凄さに圧倒された。

 この動画の冒頭で流れている曲は、その他の多くの動画においても象徴的な取り上げ方をされており、ある意味で4.10デモを代表する曲となっている。
 この曲は、デモの前段集会で演奏され、またデモの途中やゴール地点でも繰り返し演奏されていたと思う。

曲のタイトルは、チリのフォルクローレ・シンガーであるビクトル・ハラの代表曲のひとつ「平和に生きる権利 (El derecho de vivir en paz)」。このデモに参加した人たちの多くにとってみればかなりメジャーな曲であると思うが、日本において一般的に知られているかどうかは疑わしい。
 で、ぼくが紹介するのもおこがましいのだが、この曲の背景を共有することは、このデモが何であったのかを共有するために必要なことだと思う。また、ただ漠然と聞いていたひとにとっても、違った目でデモの動画を見るきっかけにもなると思うので、wikipediaレベルの概略だが簡単に説明しておく。
 
 この曲が収録された同名のアルバムは、1971年にリリースされた。

曲の歌詞はベトナム戦争を題材としており、明確に(北)ベトナムの側に立った上で、侵略と植民地支配に対して「平和に生きる権利」を強く掲げるメッセージ・ソングとなっている。
 しかしこの曲は楽曲そのものの内容とともに、この曲の作者自身が辿った運命によって、歴史に強く刻印付けられることになった。
 
 1970年に合法的な選挙によってチリに成立した左翼政権、アジェンデ政権は、富裕層のサボタージュとCIAの執拗な干渉によって疲弊し、1973年にアメリカの支援を受けたアウグスト・ピノチェトの軍事クーデターによってついに崩壊した。

 アジェンデは大統領府において人民に向けた最後のメッセージを発した後、最後まで抵抗を続け、クーデター軍によって殺害された。
 ちなみに、のちにピノチェトに登用されチリを新自由主義経済の実験場にしたミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派の経済学者たちは、アジェンデ政権崩壊を聞くやいなや喝采を送ったという。
 このチリ・クーデターについては、これを題材に多くの映画や楽曲がつくられた。正確にはクーデターを受けてつくられたわけではないが、クーデターと結びつけて演奏されることが多い「不屈の民」も、4.10高円寺デモでは演奏されている。

 
 ビクトル・ハラはこのクーデター直後、軍によって逮捕され、チリスタジアムに連行された。かれはそこで同じように連行されてきた民衆を励ますために歌をうたったところ、軍によって別所に連れて行かれ、殺害された。
 
 ハラはまさしく「平和に生きる権利」をうばわれて死んだ。しかしかれは同時に、もっとも「平和に生きる権利」を求め続けていた人間のひとりだったと思う。かれはそれを、死の瞬間においてさえも、歌というかたちで求めようとした。だがそれによって彼の生命は、たとえ数分だったとしても、縮まったことに変わりは無い。
 じっさいのところ、ピノチェト政権でさえも、「平和」に人生をおくった人びとはたくさんいたはずである。諦観を抱えながら、日々の生活に埋没し、ただシカゴ学派の人びとが主張する「トリクルダウン」をすがるように信じて生きていけば、少なくとも殺されはしないことは可能だったと思う。
 しかし、ハラのあとも「平和に生きる権利」を求め、政権に抵抗し、死んでいった者は数知れない。かれらは自分たちが何を求めているのかもわからない間抜けだったのだろうか?それを議論するのはひとまず措いておこう。
 
 ただ、ひとつだけ揺るぎないのは、「平和に生きること」は「権利」だということである。