過ぎ去ろうとしない無償化除外問題――「月刊イオ9月号」に寄稿させていただきました

 2010年に始まった高校無償化政策は、中井拉致問題担当相(当時)によるやおらの難癖をきっかけに、朝鮮学校を除外するというとんでもない差別をともなってスタートしました。それに対して大きな無償化除外反対運動が行われたにもかかわらず、結局2010年度の高級部3年生は、無償化制度の恩恵を受けられないまま卒業するということになりました。
 朝鮮学校に対する無償化除外は、最初こそ日本の大手マスコミでも取り上げられ、議論をよびましたが、2010年4月に制度がスタートし、除外が既成事実化していくにつれて、日本人社会においては関心が薄れていきました。そして3月11日の震災以降、朝鮮学校に対する無償化除外問題が、日本のマスコミで報道されることは皆無といってよいでしょう。
 無償化問題に限らず、沖縄の米軍基地問題など、いまだに解決がなされていない問題について提起しようとすると、今はそれどころではない復興だ原発オールジャパンだと返されるご時世です。しかし、これら3.11以前からずっとある問題を「過ぎ去った」ものにしてよいはずはありません。どういうことでしょうか?これについては、「月刊イオ9月号」のブロガーズ@ioというコーナーに文章を寄稿させていただいたので、そちらを読んでいただければと思います。ブログのタイトル「過ぎ去ろうとしない過去」の由来と意味について書いています。その中でも書きましたが、加害当事者にとって「過ぎ去ろうとしない過去」は目障りなものですが、被害当事者にとってそれは「過ぎ去るはずがない」ものなのです。
 「月刊イオ」を購読していてもわかるように、朝鮮学校に対する高校無償化除外については、いまなお権利のために戦う人たちがいます。いくら日本人社会がそれについて「過ぎ去った」ものにしたがろうとも、それはけして「過ぎ去らない」だろうと確信しています。
 一方で、いままさに「過ぎ去ろうと」している問題もあります。

 日本国において、外国から来た難民申請者はいっさいの権利剥奪状態にあります。この難民たちも、いっさいの権利を剥奪されたまま、それが回復されることもなく、日本から文字通り去ろうとしています。私は直接の支援者ではありませんが、しかしこの問題――つまり日本がいかに外国人に対して差別をおこなっているかという問題――については、小数の民間支援者だけでは限界があるということを強く実感しました。
 そのようなわけで、この難民たちは日本から離れてしまいますが、一方でいまだ日本で難民申請を行っている人たちもたくさんいます。この問題を「過ぎ去った」ものにしないということが、わたしたち日本人の責任ではないでしょうか。
 この難民たちにとって、第三国への出国は問題の解決を意味しません。ほとんどの問題は解決されていません。上記の支援者のブログでは、少しでも多くのお金をと、カンパを受け付けています。私も小額ですが振り込もうと思いますが、みなさんよろしくお願いします。
 
(原案:つねちゃん 作画:ほくしゅ)