大空と大地の中で――あるいは銀翼のファム

ここにもまた神々がいて、統治したもう。神々の尺度は偉大である。だが、とかく人間は自身の指尺によってそれを測りがちである

 ある有名なトリビアに、「料理研究家服部幸應は調理師免許や栄養士免許など一切の調理にかかわる免許・資格を取得していない」というものがある。理由は単純で、そうした免許や資格の創始者が彼自身だからである。ある秩序を基礎づける力は、秩序の外にあるのである。この普遍的な、しかし説明しがたいアポリアは、長年人類を悩ませ続けてきた。国家の支配とはいったい、何において正統化することができるのか?ある公法学者は、それを取得にあると考えた。古代ギリシア語で法をあらわすノモスは、取得・分配・放牧をあらわす動詞ネメインから来ている。大地の始原的な取得・分配・放牧から、国家の支配と国際秩序は基礎付けられる。
 「ラストエグザイル」の世界における「エグザイル」とは、空にうかぶ宇宙船であり、大量破壊兵器である。一方、エグザイルは支配権の根拠でもある。たとえば第一作目においてデルフィーネがアルヴィスを誘拐しようとした理由は、彼女がエグザイル起動のキーであり、すなわち支配権の正統性についての鍵を握る人物だからであった。エグザイル―Exsile―という言葉はもちろん「追放者」という意味をもつ。ある場所の支配権が、追放者すなわち場所をもたない者に由来しているのである。Exileの語源はラテン語のexsiliumであって、外に-住む-状態(異国に住むこと)を表す。ある場所の支配権の根拠となる力は、その場所の内側にはないのである。
 地球に残された数少ない肥沃な大地をめぐる闘争は、エグザイルの占有をめぐる闘争でもあった。グラキエス鎖国状態を貫けたのもエグザイルを隠し持っていたからだし、アデス連邦の「生存圏」確保のための侵略戦争は、トゥラン王国のエグザイルを奪取して以来、先鋭化する。大地のノモス、すなわち勢力の均衡、すなわち世界の秩序は、大量の「帰還民」がエグザイルをともなって大地にあらわれたことによって一変する。つまり大地に対する空の優勢が確立されたのである。
 では「空」とはいったいどのような場所なのであろうか?それは果てしなく無限に広がる空間であり、分割したり取得したりすることはできない。したがって土地の取得によってつくられる秩序からは根源的に自由な場所である、ととりあえず定義することができる。そこは、空賊の世界である。かれらは根源的に「法の外」に置かれている(なぜなら法=ノモスは取得にその源泉をもつから)。だからこそかれらは自由なのである。
 しかし、空における自由は両義性をもつのである。空はエグザイルが鎮座している空間でもある。大地のノモスのような配分的正義(各人にかれのものを)をもたない空のノモスは、敵対性を無限にエスカレートさせ、殲滅戦争へと至らせる危険性をも有している。「真の平和」を願うルスキニアの侵略戦争は、大地のノモスに固執する者すなわち平和の敵に対する大量殺戮という帰結となってあらわれたのである。大地の支配権は今や空にあり、空の秩序によって大地が規定される。その秩序とは、秩序破壊的な秩序であり、世界の破局は避けられないかのようである。
 このような破局に対してあらがうファム・ファンファンの願い(グラン・レースを復活させること)は、ルスキニアの絶望と比較して、あまりにも陳腐な思考にみえる。その願いは、今おきている戦争を止めることにも、戦争を永遠に廃棄することにも、何ら具体的には寄与しない。それは空賊的な願いであり、いかなるノモスにも由来せず、したがっていかなる力、いかなる権力ももたない。だが、その願いは絶対的な平和にたいする志向性を示してもいる。その志向性は、いかなるノモスにも由来しないがゆえに、境界線をやぶり、法の外にある法超越的な尺度へと至る。「銀翼のファム」の最終回がまったきハッピーエンドであるといえる根拠はないが、にも関らずあの結末は新たなノモスの到来を予感させるのである。