「長期的持続」のスペクタクル ――漫画版『ARIA』の風景について

(初出は2003年、某サークル正会誌)
 19世紀全般を通して、ヨーロッパにおける都市の景観は大きく変容した。産業革命は都市人口の急増と生活スタイルの変化をもたらし、技術革新が近代的な建築物を登場させた。そして、海外貿易の発展が世界中から様々な珍しいものを都市に持ち込んだ。都市には美術館や博物館、劇場や動物園などが乱立し、パリやロンドンでは万国博覧会なども開催されるようになった。いわば、都市全体が一種の「スペクタクル」空間化したのである。近隣の地方や遠く外国からきた観光客たちは、その目の覚めるような景観に圧倒されることになる。
 19世紀ヨーロッパの演劇的スペクタクル都市を、一方の極として完成させたのはヴェネツィアであろう。18世紀にはヴェネツィアはすでに享楽都市として有名であった。ナポレオンの占領によっておよそ1000年にも及ぶ政治的独立に終止符が打たれてからは、その傾向がさらに顕著になっていく。
 ヴェネツィアは、文化的に他の西欧の都市とは異なる部分が多い。東方貿易の繁栄、そして(形式的だが)ビザンツ帝国への政治的従属が、ヴェネツィアの東欧世界化、アジア世界化を促したのだ。19世紀ヴェネツィアは、その文化的特徴を最大限に利用する。都市空間の作り方から、文化的行事、食事、市民の服装に至るまで、あらゆるものを一切―ある意味ではカリカチュアとして―オリエンタル化することで、都市全体を「演劇」化、「祝祭空間」化することに成功したのである。
 『ARIA』におけるネオ・ヴェネツィアは、この18世紀、19世紀にスペクタクル化したヴェネツィアをモデルとして作られていることには疑いがない。しかし、両者のスペクタクル性は果たして同じものなのだろうか?
 決定的に異なると思われるのは「時間」である。19世紀スペクタクルの特徴は、その時間の速さである。壮大な景観、壮大な場面が、目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。人々は、自分たちを驚かせてくれるものが絶えず更新されることを望む。更新のスピードは速ければ速いほどよい。それは近代的な産業様式、生活様式が大きく反映している。鉄道の影響は言うまでもない。だが、ネオ・ヴェネツィアにおいては、時間はむしろゆっくりと流れる。ネオ・ヴェネツィアの風景は永遠性を人々に想起させる。言わば、街全体が「のんびり」しているのである。この相違性とネオ・ヴェネツィアの可能性について、19世紀のスペクタクルの特徴と『ARIA』におけるスペクタクルの特徴を分析し腑分けすることによって明らかにしていきたい。
 19世紀、世界は西欧中心の「世界システム」に組み込まれつつあった。世界システムの中核―西欧各国が工業化を進めていくのに対し、世界システムの周辺―アジアやアフリカはますますその資源供給地に過ぎなくなっていった。西欧の産業構造に従属する形でアジア・アフリカのモノカルチャー経済化が進められ、その一次産品の違いによって世界は再編成される。
 都市のスペクタクル化は、この世界のありようを反映していた。美術館や動物園、博覧会などは、帝国主義の論理で色分けられた世界を表象する。たとえば1867年のフランス万博。周辺には、西欧の資本主義経済に組み込まれることによって生産が開始された一次産品や、その地域の珍しい品物を展示した各植民地のパビリオンが配置されていた。そしてその中心には、「進歩」や「帝国」の概念を誇示するかのように、西欧先進国の工場によって生成された品々が高らかと展示されていたのである。また、大英博物館はまさにアジアやアフリカに対する西欧「文明」の勝利という意識の産物に他ならない。万博を訪れた植民地からの旅人たちは、自分たちの自己イメージと展示されているそれのギャップに困惑することになった。 当然、それを見る西欧の人々たちの視線は、オリエンタリズム的なものにならざるを得ない。帝国主義的なまなざしによって異化されたオリエンタルな世界に対する好奇心が、彼らを美術館や博覧会へと向ける動機付けになっていたのである。
 西欧の人々が世界を帝国主義的、オリエンタリズム的に表象化していくとき、重要なのは彼らと対象との距離である。彼らは対象を、自分たちとは異なる「他者」として切り離していた。スペクタクルの中心には必ず「観客席」が置かれており、まなざす主体とまなざされる「他者」は厳然と区別されていたのである。植民地からの旅行者たちと同様、19世紀のヨーロッパ人旅行者たちもまた、現実のエジプトが、インドが、中国が、彼らの自己イメージと異なっていることに困惑することになった。現地にはまなざすための中心がなく、あるのは実生活に根ざした混沌だけだからだ。仕方なく、彼らはピラミッドや万里の頂上に上ることによって、パノラマ的な展望を手に入れようとする。
 18〜19世紀における「観光都市」ヴェネツィアも例外ではなく、このような構造の上に成り立っていた。観光客は前述したようなヴェネツィアの「オリエント性」、すなわち、自らとは異なる「他者」を見にやって来るのだ。彼らはあくまでも「観察者」の立場であり、都市自体もそのような構造を反映して整備されていた。
 しかし、ネオ・ヴェネツィアという街はこうした構造の上に成り立っているわけではない。その根拠は、「ウンディーネ(水先案内人)」の存在である。「観光客専門のゴンドラ漕ぎ」である彼女たちは、同時に観光客の「視線」を決定付ける役割を持つ。ネオ・ヴェネツィアに住み、誰よりもその街を知っている「ウンディーネ」が見たものを見ることによって、観光客たちは自らを対象の外部に置くことなく、対象の中に入り込んでネオ・ヴェネツィアの風景をまなざすことが出来るのである。
 しかし、「ウンディーネ」によって視線を規定されてしまうならば、それは観光客にとって窮屈なことなのではないか?当然そのような疑問が生じてくるだろう。だが、「ウンディーネ」が見たものを見るということは、風景を見るフレームが彼女たちによってあらかじめ与えられるということではない(それならば確かに窮屈であろう)。むしろ「ウンディーネ」が見たものを見る、つまり彼女たちを媒介とすることによって、フレームは崩壊する。まなざす者にとって異化されるのではなく、まなざす者と風景との同質性が顕現するのだ。
 要するに、ネオ・ヴェネツィアの風景は、「ウンディーネ」を通して、19世紀スペクタクルのようなフレームによって切り取られた個性的・珍奇的なものではなくて、歴史性と時局性をともなう内在的・性格的なものとなるのである。それこそが「6時間同じ風景を見ていても飽きさせないような(第3話「ため息橋」)」風景であり、その風景をまなざす者は「どんな囚人さんも/橋を渡る途中に/一度は足を止めて/あの小さな窓から/美しいヴェネツィアの/街並みを見つめて/思わず/嘆きの/ため息を/漏らしたそうです」「…私達は今/その美しい景色の中で/こーして のんびり/過ごせるんですもん/ため息もんですよねぇ」(第3話「ため息橋」)と、現在と繋がる連続性の中で、偶有的な「今」を再確認できるのである。かつてあったもので、現在もあるものの再発見。それがネオ・ヴェネツィアのスペクタクルなのである。
 さらにネオ・ヴェネツィアにおける「偶有性」は、この都市の基層的な構造において潜勢的に存在していることが明らかにされる。「どこまでも/規則正しく/繰り返される/風景が/この街を/歩く人に/一定のリズムを/与えてくれるのです」(第13話「街の宝物」)フェルナン・ブローデルは、歴史の中に政治的・経済的な変化では動かない、比較的ゆるやかに流れる「時間」があることを発見した。ネオ・ヴェネツィアの中で人々が感じる「一定のリズム」とは、この「ゆっくり流れる時間」―ブローデルは「長期的持続」と呼んだ―に他ならない。長期的持続は、歴史的な偶有性によって顕在化される。そしてそれは、ネオ・ヴェネツィアの風景と、それを見るまなざしを形成する。ネオ・ヴェネツィアという街自体にもまた、観光客に、他者としてではなく、「偶有的に」自己とかかわりがあるものとして対象をまなざさせる作用力があるのである。
 そう。ネオ・ヴェネツィアにおける風景とはつねに”再”発見される対象である。それは、ロマン主義のように風景を自己の一部として発見することもゆるさない。風景自体が即自的に現実化しうる可能態であり、ネオ・ヴェネツィアにおける奇跡の過剰はこの意味で解釈される。あらゆる風景は実在可能であり、ゆえにこの世界は奇跡で満ちている。これは、経済という、「中期的持続」の範疇に属するものに根ざした19世紀「スペクタクル」においては生じえないものであり、「長期的持続」の時間のリズム、そして過去と現在の両極を揺れ動くリズムに根ざしたネオ・ヴェネツィアの「スペクタクル」だからこそ可能になったのだ。
 19世紀以降近代化する世界の中で、我々はいつしか「中期的持続」的なスペクタクルこそが唯一のスペクタクルであると思ってきた。しかし、それ以前にもこうしたゆるやかに流れる時間に根ざした「スペクタクル」はあったはずである。近年、そうした「スペクタクル」の再発見がさかんに行われているという。しかしそれらは「近代」によって失われたものとして、ノスタルジアの中で懐古されるのみである。結局、人々は地理的な外部に変わって、過去に対して「オリエンタル」なものを見出しているだけなのだ。
 SFというジャンルにおいても、作家たちはその「スペクタクル」を、宇宙時代における地球―マンホーム―への郷愁というモチーフで表現しようとしてきた。しかし、そこには「進歩」という、作品によって程度の差はあれ、一貫してSFというジャンルを支えてきた概念と対立せざるを得ないというジレンマがあった。一方、ネオ・ヴェネツィアは、「オリエンタル」的ではない、歴史的偶有性に根ざした長期的持続を基層に置いているが、他方で近代性を完全に捨て去ったわけではない。(なにせ、火星に造られた人工都市なのだから。)進歩と偶有性の共存。『ARIA』という作品が持つ、SF的可能性ではあるだろう*1
 

*1:一方、アニメ版『ARIA』は人間中心的に話が進んでおり、漫画版にあるような灯里の内面が窺い知れなくなるような圧倒的な風景の現実性が描き切れているとはいえず、残念に思う