ARIA』つながりというわけではないが、ヴェネツィアの話。
ヴェネツィア共和国という国家は、19世紀前半と後半で歴史的な評価が全然異なる。19世紀前半は、共和国滅亡からまだ時間があまり経っていないこともあって、13世紀からほとんど変わらなかった、その国制の制度疲労が実感として存在していたし、市民革命の時代だったので民主政から貴族政へと政体を変更したという歴史を持つヴェネツィア共和国はすこぶる評判が悪かった。ところが、ランケが19世紀中ごろに実証主義歴史学を確立すると、評価は一変する。ランケの歴史学の基本は国際政治史である。複雑怪奇なヨーロッパの政治史を読み解くため、彼は史料として外交文書を特に重視した。さて、ヴェネツィアはもともとは商業国家である。もちろん、商売にとって国際政治の正確な情報は不可欠である。よって、この国では外交技術・情報収集能力が非常に発達した。ヴェネツィアの外交官が残した膨大な記録は、新しい歴史学にとってとても重要な役割をもったのである。しかし、これには罠があった。どこの国でも、自分の国の悪口を書く外交官は存在しない。ヴェネツィアの外交官が残した記録では、いつもヴェネツィアは正しい国家であった。そして、他国に比べてヴェネツィア側の史料は圧倒的に多かったため、その評価がそのまま歴史に採用されてしまったのである。
こういうのこそ、「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう」という良い例なのではないだろうか?
オーラル・ヒストリーと文献史、全体史と個性記述的な歴史、どちらが優れている、ということではないだろう。方法論的には、あらゆる歴史資料はそのまま事実を写し出すわけではない「ゆがんだガラス」であることを認識し、史料を逆なでに読みながら事実へと接近していくほかはない。