ビーダーマイヤーのドイツ 自由主義のドイツ
今度はビーダーマイヤーで飛んでくる人が増えた。ビーダーマイヤーについては実は今結構引っかかってるトピックなんだよね。
ナポレオンが敗北し、ウィーン体制が成立すると、特にドイツやオーストリアでは強固な反動政治が行われ、市民の政治参加は厳しく制限された。そのため、市民たちはフランス革命以後の戦乱によって疲弊していたこともあって、次第に国家や政治とのかかわりを厭い、身近な事柄にのみ関心を寄せるようになっていく。天下国家を語るのを止め、諦念とともにただ静かに生きていく。こうした生活が19世紀前半、主に西南ドイツやオーストリアで広がっていった。この時代をビーダーマイヤーの時代と呼ぶ・・・・・・とされる。
しかし、オーストリアはともかく19世紀前半のドイツは改革の時代でもあったんだよね。『ドイツの歴史』を著したニッパーダイがその冒頭を「はじめにナポレオンありき」というフレーズで始めたように、ナポレオンの占領はドイツの近代化に大きな刺激を与えた。自由主義運動はメッテルニヒによる度重なる弾圧にもかかわらず隆盛した。1832年のハンバッハ祭がそのひとつの結実。また、バイエルンをはじめとする西南ドイツ諸国では、この時期に憲法が発布されている。確かにそれらは自由主義的な意図からというよりはむしろ領邦内の統一と近代化を目指す「上からの改革」であった。しかし、これによってまがりなりにも立憲政治が始まったことは事実だし、その憲法はフランスのそれをモデルとしており、後のドイツ革命の時期に発布されるプロイセン憲法と比較してもかなり「進歩的」な性格を持っていた。また、領邦によっては議会が多くの自由主義的な市民によって構成されることもあった。
このように、ウィーン体制下のドイツはまったくの反動体制下にあったわけではないことを考えると、ビーダーマイヤーの時代を説明することは難しくなる。確かにドイツの統一を語ることだけは厳しく制限されていた。しかし、少なくとも領邦レベルの改革に関しては、ある程度参画の道は開けていたはずだ。じゃあなんでビーダーマイヤーたちは内に引きこもらなければならなかったわけ?
最近考えているのは、大胆な仮説だが、実はビーダーマイヤー時代というのはドイツ統一期における自由主義と中小領邦の改革が過小評価されていた時代、ドイツ統一がプロイセンとオーストリアの抗争を中心としてしか語られなかった時代につくられたイメージにすぎないんじゃないかということ。思想的に体系づけられたものではないが、民衆には民衆の改革への意識・倫理というものがあって、それを汲み取れなかった人が「日常性への埋没」とか言い出すんじゃないかと。