無縁なるフレンズ

 けものは居てものけものは居ない――だが、「けもの」とは「のけもの」である。
 ワーウルフ、すなわち人狼の伝説は、ネウロイ人――かのイキリ軍事オタク御用達のアニメにおいて、それが敵対者として刻印づけられた名前であるのは示唆的であろう――に関する記述として、既にヘロドトスの時代から知られていた。一方、中世において人狼は具体的な人間の形象を取る。すなわち、彼らは非人間つまり教会や共同体の裁判において追放された「のけもの」たちのことなのだ。
 近代国家は暴力を独占するが、中世の国家はそうではない。自力救済が当たり前だった時代で、共同体は罪ある者とされた人間に対するいっさいの保護を停止し、排除する。すなわち「縁を切る」。排除された人間に対しては、生命を奪うことを含め、何をしてもよいのである。何となれば、「のけもの」は人間ではなく、「けもの」なのだから。
 共同体におけるあらゆる権利を剥奪され、「のけもの」とされた人間たちの避難所をアジールという。いったん彼らがそこに逃げ込んでしまえば、身内を殺され、自力救済のために彼の命を奪わんとする追手たちはけして手出しできない。アジールにおいて、「のけもの」は安全を保障されるのである。アジールとされた領域の多くは、寺院や、神殿や、教会といった聖なる場所であった。それは世俗の領域と区別された場所であり、なまなましい流血沙汰は文字通り場違いなのである。
 ただし、アジールは宗教的というよりもむしろ法的・制度的な性格を持つ。19世紀の詩人ヘルダーリンは、アジールを法の女神テミスの娘として解釈した。逆説的なことではあるが、いったん下された共同体の判決が通用しないような法の例外たる領域において、人間の例外たる「けもの」は、法的な保障を受けられるのである。アジールとは従って、法を超越する法といえよう。自力救済の弊害は、復讐の連鎖が起こりうることである。とくに戦士としての名誉が重視されていたゲルマン系の諸民族にとっては、復讐は義務のようなものであった。しかし、手出ししたくても手出しできない領域があったならば、いったん頭を冷やして話し合うこともできよう。アジールは、暴力を回避して平和を志向するための、ひとつの知恵でもあるのである。
 けものは居てものけものは居ない――ただし、「けもの」とは「のけもの」である。「けもの」が「のけもの」でなくなれるのは「けもの」たちの共同体においてのみであろう。「けもの」が人間の姿でいられるのは、アジールにおいてのみであろう。
 中世日本列島の、無縁の場所としてのアジールに生きる、無縁の人々の有様をいきいきと描いたのが網野善彦であった。一方、アジールの自立性は、その一身にすべての権力を集める支配者たちにとっては、鴨川の水やサイコロの目と並んで苦々しいものと映る。そして近代国民国家はすべての暴力を独占しようとする。リヴァイアサン――究極の「獣」の登場によって、各地にあった「のけもの」たちのための自立的な領域、アジールは、ヨーロッパでも日本でも、近代化とともに次第に消滅していく運命にあった。網野はそれを感傷をもって語り、平泉澄は当然のこととして語る。
 アニメ版『けものフレンズ』において、フレンズの敵対者であるセルリアンの正体については最後まで謎めいたものに留まった。一方、筆者は未体験であるが、アプリ版のストーリーの中には、その動機があらゆる情報を保存することであるという示唆もあるらしい。いずれにせよ、その情報を取り込みフレンズをただの獣に戻すセルリアンは、「けもの」の中の「のけもの」というよりは、アジールを自らの支配下に加えんとする近代国家の隠喩として捉えることもできよう。
 けものは居てものけものは居ない――だが、それが成り立つ領域が存在することは、けして自明ではない。そのような場所は、ひとつの例外としてのみ存在する。ときに我々は、そのことをまざまざと見せつけられるのである。



■参考

ようこそジャパリパークへ

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アジール―その歴史と諸形態

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無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

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