まどかの救済――あるいは背中のまがったこびとの話

 2月のエントリ「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」は、本編があのような結末をむかえたこともあって、大きな反響を呼んだ。もちろん、あのエントリは予測でも願望でもなく、魔法少女の理念をただ著しただけにすぎない。しかし、内心の予想以上にあのエントリとぴったりくる結末だったのをみて、本人が一番驚いているとともに、ベンヤミンと『まどか☆マギカ』の相性はよいということを、ますます確信するに至った。
 ところで、人気番組終了の常なのだが、最終回以後、様々な感想がネット上に飛び交っている。満足した者、満足してない者、それぞれいるだろう。あの結末は納得がいかない、という人がいるのはあたりまえのことである。ひとにはそれぞれ価値基準があるのだから。しかし、あのわかりやすい最終回を見て、なお見当違いな解釈をおこなっている人びとも多く見られる。それはたぶんにドグマ的であり、「誰かが幸福になるには誰かが不幸にならなければいけない」という信仰の強さを改めて感じさせられた。もちろん、『まどか☆マギカ』はそのような話ではないのである。
 このエントリは、2月のエントリの補遺として読んでほしいが、じっさいの例を多く取り入れたことで、より分かりやすくなっているとおもう。また、この着想の少なからぬ部分は、友人である常野雄次郎に負っている。このエントリの補遺、つまり補遺の補遺として、「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」「反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論」「ゆめ」あたりを参照していただけると、より問題意識が鮮明になると思う。たとえば、「テラ豚丼」エントリを読んでいただけると、(しばしば混同されている)まどマギの結末と単なる自己犠牲称揚の物語との差異が鮮明になるだろう。
 
 ベンヤミンの得意とするモチーフに、「背中のまがったこびと」の話がある。そのこびとは歴史的唯物論という人形を操っている、と彼は『歴史哲学テーゼ』の冒頭で述べる。そして、わたしたちがそのこびとを使いこなすことができれば、歴史的唯物論は常に勝利することになっているのだ。
 『まどか☆マギカ』の魔法少女すべては、つねにすでに救済されている。しかしその救済は、わたしたちがこのこびとをうまく使いこなす限りにおいて正しく見通すことができる。むろん、わたしたちは『まどか☆マギカ』の物語に対して、自身の価値観において批判を加えることはできる。しかし、この物語をひとつのアレゴリーとして読むならば、その解釈はおのずと一つに収束するはずであると思われる。
 まどかの願いはただ一点、あらゆる魔女の消滅である。それ以上でも以下でもない。まどかは、すべての魔女が消滅した世界の運命に責任を負わない。世界の摂理が――それはしばしば「作者」と呼ばれる――魔女のかわりに魔獣を生み出したとしても、それはまどかが感知するところではない。この点で、まどかを全知全能の神、世界の統治者に模した解釈は間違っている。確かに、まどかを神のアナロジーで捉えることは、その後の説明を容易にする。しかし、その現れは世界の構築者としての神ではなく、救い主としてのそれであって、あの結末を不十分であるとする不満の多くは、この混同にあるのである。個人的には、まどかは「神」というよりも「英雄」のモチーフが適当ではないかと考えている。
 まどかは、ホロコーストの悲惨を知らないし、非正規雇用の悲惨も知らない。両親の愛を存分に受けて育ち、またさやかのように失恋の痛みもない。彼女がその眼で見たのは、魔法少女の悲惨であり、魔女の悲惨である。キュウべえは、それが歴史の最善であると彼女に教える。人類の進歩は彼女たちの犠牲によって達成されたのであり、そのような犠牲は世の中にいくらでもある。もしその悲惨を許せないとするならば、かのじょは牛や豚を食べるべきではない。
 キュウべえが試みたのは、自分自身の無力さをまどかに対して刻印づけることにあったのであり、彼女の内面に一つの法を措定することである。それが、神話的暴力とよばれるものの力なのである。キュウべえの口から語られる人類の歴史は、キュウべえによって因果付けられた道徳物語としての神話であり、それまでの法の説明であるとともに新たな法を打ち立てるものでもある。この法は、たとえばエネルギーなんちゃらの法則といったものとはなんら関係はない。
 だが、まどかは願いによってその法を破壊するのである。彼女は、世界の摂理に対して考えるのをやめる。そして、目の前の魔法少女と魔女の悲惨だけを見る。目の前の悲惨は悲惨であるがゆえに、救済しなければいけない。彼女は魔法少女と魔女を救いたかったのであり、そしてやりたかったことをやったのである。母親やほむらの制止があったとしても。そして、かのじょたちがどれだけ自分を愛しているか知っていたとしても。まどかは自分自身以外のものを言い訳にせずに、自分のやりたいことをやるのである。かのじょは、どのようなダイタイアンも提示していない。まどかの願いが、それ以外の世界の摂理に関係していたという説には一切根拠がない。
 なぜまどかだけがその破壊を行いえたのかはわからない。ほむらによって溜め込まれたまどかの魔法少女としての力、まどかの願いの過不足なき適切さ、様々な仮定をたてることができるが、実際のところは不明なのだ。しかし、現実にまどかは破壊を行い得たのであり、その時間と空間を超越した破壊が、すべての魔法少女をつねにすでに救済するのである。
 
 1960年代の公民権運動の発端は、ローザ・パークスの逮捕によるバスボイコット運動にあることはよく知られている。1955年の12月、ローザはバスの白人優先席に座った。しばらくすると白人が乗ってきたので運転手は彼女に立つように命じた。しかし、ローザは運転手の命令に従わず、警察に逮捕されることになった。
 今日では、ローザの行為は正義に基づく英雄的な抵抗であるということになっている。だが、それはいまだからこそいえることだ。1950年代の当時では、彼女はその場でリンチにあってもおかしくはなかった。じっさいのところ、ローザと同じような行動をして掴まった黒人たちはたくさんいて、かれらかのじょらは、その抵抗が(部分的には裁判で勝利するなどのこともあったものの)全国的な運動に結びつくこともなく、ただ酷い目にあっただけで終わっている。ローザ・パークスの名は教科書に載っている。しかし、その無数のひとびとの名前は、今ではほとんどの人は知る事がない。
 いま、わたしたちが1950年代当時にいるとする。ある黒人の友人が、目の前で差別に対して勇気ある抵抗を試みたとき、わたしたちはかれかのじょにどのような言葉をかけるだろうか?わたしたちは、その抵抗に何の意味もないことを知っている。そして、かれかのじょらはその代償として死をも覚悟しなければいけないことを知っている。常識的な判断であれば、その黒人の行為は無謀であり、バカげたことであり、その黒人自身のことを想うならば、一刻もはやく止めさせなければいけない。
 しかし、2011年のいまでは、わたしたちは常識的に有り得ないことが起きたことをしっている。一人の黒人の無謀な抵抗が、公民権法を制定させたことを知っている。つい10年前まではSFの世界でしか有り得なかった黒人の大統領が今誕生していることを知っている。もちろん、オバマは悪いことをたくさんしている。イスラエルパレスチナ占領を支援し、沖縄に基地を押し付けている。そして、オバマが大統領になったからといって、黒人の生活環境は白人にくらべていまだ低いままである。とはいえ、ありえないはずのことがありえている。そのことはゆるぎない事実である。
 「今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。」と常野さんは言う*1ローザ・パークスは、別に自分がボコボコにされて殺される可能性について分かっていなかったわけではない。ただ、「屈服させられるのがイヤだった」と彼女は言っている。彼女は、その自由を行使したのだ。
 ローザの行為が歴史を動かしたのはいまは誰もが知っている。では、歴史を動かさなかった無数のひとびとについては?かれらかのじょらの抵抗は無駄だった。しかし、「かれらかのじょらの抵抗は無駄だった」とわたしが言及した時点で、かれらかのじょらの抵抗もやはり、わたしたちの記憶に刻印づけられるのではないか?だいいち、このエピソードだって、わたしがどこかの本で読んだことの引用であり、それはもっと多くの人に知られているのだ。ローザ・パークスが歴史を動かすことによって、無名の抵抗者たちは歴史の廃墟から姿を現している。しかし、それはかれらが抵抗を行った時点で、つねにすでに約束されていたものなのである――わたしたちが、希望について確信している限りは。
 
 まどかが救済したのは、人間の「自由」である。魔法少女たちは、その願いが自分自身や周囲をかえって傷つけることになると知っていたかもしれない。しかし、それでも願わずにはいられなかった。自分のために、あるいは、誰かのために。そのことによってたとえ、運命の神話的暴力が彼女らの中にソウル・ジェムを植えつけようとも――つまり、法を強制的に挿入しようとも――、「願う」という崇高な自由までは奪えないのだ。ゆえに、魔法少女の願いが、絶望によって魔女へと転落するその瞬間、まどかはそれを掠め取る。あの『ファウスト』の最後の場面、天使たちがファウストの魂をメフィストフェレスから掠め取ったように。
 『ファウスト』における魂の強奪が契約の破壊として唐突に行われたように、まどかの救済も魔法少女-魔女システムという法の破壊として行われている。しかし、この救済は時間と空間を超越しているがゆえに、「いつ」起ったのかを言うことはできない。救済はつねにすでに起っている。ゆえに、魔法少女たちはあらかじめ救済されていたのである。
 
 巴マミの台詞で3話のタイトルでもある「もう何も怖くない」は、その後の彼女が辿った運命から、アイロニカルな言葉として周知されている。しかし、最終回を経た今では、この言葉は別の意味をともなってくる。ふたたび公民権運動から引用すれば、それはマーティー・ルーサー・キングのことばと比較されるべきだろう*2

 誰でもそうであるように、私は長生きがしたい。長寿には価値がある。しかし今や私はそれには関心がない。私はただ神の意思を行いたい。そして神は私が山を登ることを許された。そして私は見渡した。そして私は<約束の地>を見た。私は皆さんと共にそこに行くことはできないかもしれない。しかし今宵、皆さんには知ってもらいたい。我々は人民として<約束の地>に到達するのだということを!
 だから今宵、私は幸福である。私は何の心配もしていない。私は誰も恐れてはいない。我が目は主の到来の栄光を見たのだ!

じっさい、この演説を行った次の日にキングは暗殺されるのであるから、しばしばこの演説もアイロニカルな意味に解釈されることがある。だが、それが問題なのではない。常野さんはこう言っている。

ここでキング牧師は「私は山の頂に立ったから」もう何も恐れていない、と言っている。「我が目は主の到来の栄光を見たのだ」と。今日からすると、キング牧師アメリカ史上最も偉い人、ということになってるから、それを予知させるなんて神様はスゴイね、とも思えるし、キングがブッシュにも祭り上げられる一方で大半の黒人の状態はむしろ悪化してるから結局大したことなかったとも思えるかもしれない。しかしキング牧師は何も形式的な差別が解消される未来を予知しようとしたのではないと思う。
 そうではなくて、彼は確信したのだ。私はタバコが吸いたいのだと。「主の到来の栄光を見た」というのはそういうことだと思う。

巴マミの台詞は、まどかが魔法少女になると決意し、自分が一人ではないと確信したときのものであり、はじめて自分が魔法少女であることを肯定したときにおいて発せられた。それはつまり彼女がまどかの自由を確信したときであり、自分自身の自由をも確信した瞬間である。もちろん、まどかが順調に魔法少女として成長し、自分がそれまで死なない保障など彼女にはなかった(じっさい、次の瞬間には死ぬのであるから)。だが、彼女は確信したのである。まどかの未来を。ゆえに、「もう何も怖くない」のである。そして、すべての魔法少女があらかじめ救済されていたのであるから、これを二重の意味において、つまり救済が約束されているがゆえに「もう何も怖くない」のだとも解釈するべきである。
 
 冒頭にあげたように、『まどか☆マギカ』はアレゴリーとして読まれるべきである。それは、あらゆる時代、あらゆる場所における、人間の自由についてのアレゴリーである。法に対して新たな法を提示するのではなく、ただ自由を行使すること――つまり法にたいして反逆することはわたしたちに常に開かれている。もし、魔獣によって悲惨が生み出されているとしても、救済が行われた地点から見れば、その悲惨はあらかじめ救済されていたことになるだろう。そしてその視点は、まどかの救済とわれわれの視点が接続することによって、捉えることができるのである。

ユダヤ人には、未来を探しもとめることは禁じられていた。その一方で、立法と祈祷とが、かれらに回想を教えている。回想が、予言者に教示を仰ぐひとびとを捕えている未来という罠から、かれらを救いだす。とはいえ、ユダヤ人にとって、未来は均質で空虚な時間でもなかった。未来のあらゆる瞬間は、そこをとおってメシアが出現する可能性のある、小さな門だったのである。

ベンヤミンは亡命生活の末ナチズムに追い詰められ、1940年にスペイン国境沿いの村で自殺した。死の直前にアドルノの元に草稿が送られ、かれのもとで出版された『歴史哲学テーゼ』の最後を、ベンヤミンはこの言葉で締めくくっている。
 わたしたちは、回想のなかでちらりと現れる過去のイメージをとらえる。そのなかに「背中のまがったこびと」はいるのである。しかし、わたしたちはまだ、あらゆる過去を引用できない。だが、一瞬一瞬に含まれるかすかな救済の痕跡に、奇跡の可能性を見出す。その無数の痕跡のひとつが、もしかしたらまどかの救済であったかもしれない。わたしたちがそれを確信するならば。
 
参考文献

東浩紀と宇野常寛が、言論人の「責任」について何を語れるっていうの!?

東浩紀宇野常寛とスネオ主義の臨界点
http://d.hatena.ne.jp/tomatotaro/20110416/1302962668

 あずまんと宇野は既に燃料棒の99%が損傷したとの噂。
 まあid:Cunliffe先生のいうとおり、「ポモ村の中でなら好きなだけやってろ」という話であるのだが、いちおう、松平さんがやっている『新文学03』という同人誌に書いた『ゼロ想』批判を抜粋しておく。

 宇野は「物語」の内容の優劣や正しさを考えるのは意味がない、という。さらに南京大虐殺があったかなかったか好きなほうを信じればよい、と歴史修正主義まで容認する。これは、いかにポストモダン相対主義者といえど言わなかったことである。日本には何人か見受けられるが、それは恐らくガラパゴス的な進化の賜物なのだろう。ともあれ、宇野がそう主張する根拠は当然「大きな物語」が崩壊し、それ自体完結した「小さな物語」を比較する尺度がないからである。
 だが、たとえば在日朝鮮人を見かけたら石を投げつけるべきであるという信念を持ち、実際に投げつける人がいて、その集団が他の集団によってそれを妨げられないほど大きくなり現実的に驚異となったとしても、宇野理論ではそれを非難できない。設計主義によって構築された社会システムがそのような行為を妨げる?よろしい。ではそのシステムの構築にあたっては、少なくとも他者に石を投げてはいけないという価値については共有できているようだ。われわれは宇野が何と言おうが価値についての尺度をいまだなお共有することができるし、価値を吟味することは意味がないどころが、それをしなければわれわれの生活は成り立たない。彼がいえるのはせいぜい「価値を問題にしてはならない」ということであって、それはそれ自体がひとつの「価値」なのである。
 なぜこのようなことを述べなければいけないかといえば、宇野の議論があまりにもこの点において頑なだからである。彼は、「決断主義」においてその決断には責任が伴うことを認めている。何を信じればいいか分からないというセカイ系の前提を引き受けることによって決断主義的想像力は台頭したという。

 セカイ系決断主義に克服されたとき、そこにあったものはセカイ系的な前提――社会像の変化によって、確実に価値のあること、正しいことがわからなくなり、何かを選択すれば誰かを傷つけ、自分も傷つくこと――に対する否定ではない。むしろ肯定であり、前提としての徹底した共有である。徹底してセカイ系的前提を受け入れたからこそ、生きるためには(たとえ無根拠でも)何かを選択し、決断し、その責任を負わされなければならないという想像力が台頭したのだ(p135)。

ところが、決断にともなう「責任」とは何ぞやということについては、宇野はこののち語ることはない。決断と責任をセットで考えることは、当たり前のことである。ところで、ある決断をすること――ここではある「物語」を信じるという決断をすることに限定しても構わないが――に伴う責任は、つねに自分にだけ負うものではない。南京大虐殺がなかったという「物語」を信じる者については、南京大虐殺の犠牲者や生存者において責任が問われる。責任―responsibility―応答可能性の問題を考えると、当然そうならざるをえない。現代思想の研究者である高橋哲哉は、この応答責任について以下のように説明している。

 たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがあるわけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいてください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えてください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきません。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」というわけですから、わたしは気づいたときにはそれを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いてしまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応えるか、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。
 「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしないのかの選択の内に置かれることです。(…)「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのかぎり、その選択は私の自由に属するということもできるでしょう。
(…)私は責任を果たすことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティの内に置かれる、このことについては私は自由ではないのです。他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではないのです。(『戦後責任論』p.33-34)

 たとえば日本国民である私が南京大虐殺があったと信じたとしても、そのことによって即座に中国の人々に対する謝罪義務や賠償義務が発生するわけではない。ところが、私が南京大虐殺を信じるにせよ信じないにせよ、応答責任の問題からは私は逃げることができない。「他者の呼びかけを聞くことについては私は自由ではない」のである 。この他者との関係、責任の引き受けにおいて、「物語」の内容はけして入れ替え可能なものではない。他者との関係は、自分が何を信じるかによって変わってくるものだ。もちろんコテコテの独我論者ならば他者の存在をそもそも認めないのかもしれないが、少なくとも宇野は他者の存在を認め 、また「決断主義」の他者回避の問題について批判的であり、倫理をめざしているはずである。にも関わらす、彼は決断に伴う責任の問題から、執拗に逃れようとしているようにみえる。責任に目を向けたとたん、「物語」の内容、「物語」の価値評価の問題に踏み込まざるをえない。宇野は「物語」の価値評価について考えることは意味がないと繰り返し述べるが、穿った見方をすると「物語」の価値評価をしてほしくない/されたくないのだ、という彼の個人的なメッセージにも思えてくる。その点で、宇野が批判したセカイ系の引きこもり的想像力のほうが、他者との関わりにおいてより倫理的なように見える。何もしないという選択(それは「決断」であると宇野自身が認めている)は他者の存在を認識した結果生じたものだからだ。セカイ系は文字通り世界に開かれているのに対して、(個々の島宇宙が、ではなく)決断主義という考え方それ自体が世界から目をそむけた「引きこもり」の哲学といえる。
(北守「『ゼロ想』への葬送―あるいはテンプレだらけの宇野常寛批判」『新文学03』より)

「震災に積極的に介入する言論人」も「モノポリーをするサブカル批評家」も、ポストモダン相対主義に依拠した無責任主義を貫いているかぎり、どっちもどっちとしか言えない。
 

平和に生きる権利

 「4.10高円寺 原発やめろデモ」に行ってきた。
 15000人ものデモに参加するのは初めてで、とにかくその熱気の凄さに圧倒された。

 この動画の冒頭で流れている曲は、その他の多くの動画においても象徴的な取り上げ方をされており、ある意味で4.10デモを代表する曲となっている。
 この曲は、デモの前段集会で演奏され、またデモの途中やゴール地点でも繰り返し演奏されていたと思う。

曲のタイトルは、チリのフォルクローレ・シンガーであるビクトル・ハラの代表曲のひとつ「平和に生きる権利 (El derecho de vivir en paz)」。このデモに参加した人たちの多くにとってみればかなりメジャーな曲であると思うが、日本において一般的に知られているかどうかは疑わしい。
 で、ぼくが紹介するのもおこがましいのだが、この曲の背景を共有することは、このデモが何であったのかを共有するために必要なことだと思う。また、ただ漠然と聞いていたひとにとっても、違った目でデモの動画を見るきっかけにもなると思うので、wikipediaレベルの概略だが簡単に説明しておく。
 
 この曲が収録された同名のアルバムは、1971年にリリースされた。

曲の歌詞はベトナム戦争を題材としており、明確に(北)ベトナムの側に立った上で、侵略と植民地支配に対して「平和に生きる権利」を強く掲げるメッセージ・ソングとなっている。
 しかしこの曲は楽曲そのものの内容とともに、この曲の作者自身が辿った運命によって、歴史に強く刻印付けられることになった。
 
 1970年に合法的な選挙によってチリに成立した左翼政権、アジェンデ政権は、富裕層のサボタージュとCIAの執拗な干渉によって疲弊し、1973年にアメリカの支援を受けたアウグスト・ピノチェトの軍事クーデターによってついに崩壊した。

 アジェンデは大統領府において人民に向けた最後のメッセージを発した後、最後まで抵抗を続け、クーデター軍によって殺害された。
 ちなみに、のちにピノチェトに登用されチリを新自由主義経済の実験場にしたミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派の経済学者たちは、アジェンデ政権崩壊を聞くやいなや喝采を送ったという。
 このチリ・クーデターについては、これを題材に多くの映画や楽曲がつくられた。正確にはクーデターを受けてつくられたわけではないが、クーデターと結びつけて演奏されることが多い「不屈の民」も、4.10高円寺デモでは演奏されている。

 
 ビクトル・ハラはこのクーデター直後、軍によって逮捕され、チリスタジアムに連行された。かれはそこで同じように連行されてきた民衆を励ますために歌をうたったところ、軍によって別所に連れて行かれ、殺害された。
 
 ハラはまさしく「平和に生きる権利」をうばわれて死んだ。しかしかれは同時に、もっとも「平和に生きる権利」を求め続けていた人間のひとりだったと思う。かれはそれを、死の瞬間においてさえも、歌というかたちで求めようとした。だがそれによって彼の生命は、たとえ数分だったとしても、縮まったことに変わりは無い。
 じっさいのところ、ピノチェト政権でさえも、「平和」に人生をおくった人びとはたくさんいたはずである。諦観を抱えながら、日々の生活に埋没し、ただシカゴ学派の人びとが主張する「トリクルダウン」をすがるように信じて生きていけば、少なくとも殺されはしないことは可能だったと思う。
 しかし、ハラのあとも「平和に生きる権利」を求め、政権に抵抗し、死んでいった者は数知れない。かれらは自分たちが何を求めているのかもわからない間抜けだったのだろうか?それを議論するのはひとまず措いておこう。
 
 ただ、ひとつだけ揺るぎないのは、「平和に生きること」は「権利」だということである。
 

米粒があたかも人間であるかのように――小池晃氏都知事選出馬への支持表明

 
――君たちはいつもそうだね。反石原統一候補はすでにいるのに、それが共産党だと分かると決まって別の候補を探そうとする。わけがわからないよ。どうして"現実主義"リベラルは、世論の支持にこだわるんだい?
 
 
※最初の数段落は左翼の人向けなので飛ばしてもらっても結構です
 わたしは一応ドイツの歴史なるものを研究していたりしていなかったりするので、議会制民主主義へのシニシズムに対してはもともと批判的でした。まさにそのシニシズムこそが、ワイマール体制を崩壊に導いた元凶だと思っていたからです。
 しかしここ数年、やはり議会制民主主義は本質的にはマジョリティとマイノリティの格差を追認することでしかないのではないか、という思いが強くなりつつあります。もちろんすぐできる改善はあります。(理念と実証科学に基づいた)選挙制度改革、供託金の廃止、外国人参政権の導入などです。しかし、少なくとも現在の日本の国政選挙・地方選挙に参加することは、現状の排除に加担することではないか?というまよいがあります。それよりは、選挙ではない政治参加のあり方を続けていくほうがよりよいのではないかと。

■今日は衆院選ーー極左のきもち
http://www.youtube.com/watch?v=bE2hqwrFQEs&feature=channel_video_title
(最初のうたは我慢して聞いてください)

 とはいえ、日本の政治が選挙制度からすでに排除されているようなマイノリティに対して、ありえないような暴力を行使し続けており、しかもここ最近ますますエスカレートし始めている状況において、直接行動と同様、わたしたち日本人の特権である選挙権を行使することもまたひとつの責務ではないか?ということも一方で思います。そのような堂々巡りのなかで、少なくとも次の都知事選については、「反石原」の意思表示をはっきりと示す機会として、参加することを決めました。
「今日は選挙に行きました。それでもわたしは左翼です」
 
 4月10日の都知事選を控え、聞こえてくるのは阿鼻叫喚の声です。出馬を表明する候補者がことごとく酷すぎるのにくわえ、引退を表明していた石原慎太郎が改めて出馬を表明したのです。それに対する絶望は、まだ選挙は始まっても居ないのに、あたかもすでに石原が次の都知事に決定してしまったかのようです。
 しかし、出馬表明は個人の自由です。問題は、有権者がかれを選ぶかどうかでしかありません。わたしたちは、石原慎太郎が過去12年のなかで何をやってきたかをしっています。破綻した新銀行東京、汚染された豊洲への築地市場移転強行、福祉の削減、オリンピック招致運動という無駄使いとそれに伴う身内への便宜供与、ひのきみ問題に代表されるような教育の管理化、非実在都条例、ババア発言や三国人発言、さらに障害者やセクシャルマイノリティへの一連の差別発言などなど、この人物が都知事に再選されることはもはやあってはならない事態であることを知っています。
 Arisanさんは、この選挙の争点は「反石原」であるといいます。そのうえで彼は、「今回の選挙に、石原が出るかどうかは、大きな問題ではない。」ともいいます。

東京都知事選について
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110307/p1
今回の選挙に、石原が出るかどうかは、大きな問題ではない。
「反石原」を掲げ、思ってきた人たちが納得のいく投票行動を行い、それが何らかの形として示されなければ、誰が当選しようと、この選挙は「反石原」陣営の「不戦敗」なのだ。

「反石原」というのは、たんに石原慎太郎という個人に反対するということではありません。上に挙げたような、かれがこの12年間行ってきた様々な不正義、それに対する異議申し立てが「反石原」なのです。
 そのうえで、わたしたちは選択しなければなりません。「反石原候補」は誰か?と。今のところ名前が挙がっている松沢、東国原、渡邉らは、いずれも石原路線を否定しておらず、「反石原候補」になりえません。
 そのなかで、共産党から無所属になって出馬を表明している小池晃は、今のところ「反石原」を表明している唯一の候補です。
http://www.koike-tochijikouho.com/
単に「反石原」と表明しているだけでなく、HPやyoutubeを見る限り、政策的にも「反石原」を掲げるに申し分ありません。いや、それどころか、今までの「反石原」対抗馬たち、鳩山邦夫、升添陽一、樋口恵子、浅野史郎と比べても、「最良」の反石原候補と呼べるのではないでしょうか?誤解ないように言っておくと、わたしは必ずしも日本共産党の支持者ではありません。たとえば領土問題など、かの党の考え方とは明確に異なる点はいくつもあります。ただし、とりあえず都知事選の政策においては、積極的に反対すべき点は今のところないように思えます。
 わたしのようなめんどくさい左翼は別にして、ふつうのサヨクあるいはリベラルの皆さんにしてみれば、より問題なく彼の政策は受け入れられるのではないかと思います。ところが、むしろそうした人ほど、小池氏の出馬には苦虫を噛み潰しているようです。何が不満なのか?かれらによれば、小池氏は当選の見込みがない、つまり、実効的な投票でないということが、小池氏の唯一の、そして決定的な問題だそうです。
 しかし、わたしにはよくわかりません。特に今回の場合、小池氏以外は石原かプチ石原しか出ていないのです。はっきりと反石原を表明している人物ではなく、プチ石原の中の石原的でない部分を必死に探して、その微小な差異において「実効的」な投票を行ったところで、それは何の意味があるのでしょうか?その人物が仮に当選したところで、何の意味があるのでしょうか?
 つねのさんは、4年前の都知事選のさいに、このように述べています。

■「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」――グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070324/1174662000
 山口二郎は、別の文章で、左派、市民派護憲派が「現実主義」を欠いていることを嘆いています*2。そして、政治の世界では意図ではなく「結果がすべて」であるという論理で、ある地方自治体選挙で独自候補を擁立して現職候補に「漁夫の利」を与えることになった共産党を非難します。スターリンによる大粛清裁判の語彙を使うとすれば、共産党はその主観的な善意に関係なく「客観的に有罪」であると言えるかもしれません。
 しかし、「現実」とは何でしょうか? 「現実主義」とはなんでしょうか? きっと山口にとっての現実は、報道ステーションでの福岡政行の政局解説のことなのでしょう*3。福岡さんが各党や派閥の議席数を反映した模型を様々に組み合わせながら見せてくれるあのエンターテインメントを見て、きっと山口先生は「共産党は単独で勝利することは絶対にない」と確信し、「でも、自公以外の勢力を全部足し算すれば、勝利できる可能性があるかもな〜」と思ったのでしょう。そしてその瞬間に、歴史が終焉しました。各党の勢力が大きく変動することはもうない。あとは、時間が止まった世界で数合わせの戯れが続くことになります。
 今や世論調査は、世論を知るためのものではなく、世論を規定するものとなりました。私たちが心理テストに職業を決めてもらうように、選挙民は世論調査の結果を見て、自分の投票行動を決めなくてはならないのです。自分の素朴な判断で誰に投票するかを決めるのは危険です。うっかり、「意図」に反して敵を利するという「結果」を招いてしまうかもしれないのですから。専門家の適切なアドバイスが必要です。山口先生に決めてもらいましょう。もし、多くの選挙民が先生の善良な生徒となれば、「泡沫候補」は実際に泡沫候補並みの票しか獲得しないことでしょう。かくして、「現実主義」が「現実」を支配します。

(単に、石原慎太郎がいなくなればいいという意味での)反石原を旗印にした投票行動の選択は、結局このような茶番でしかありません。たとえば非実在都条例を考えてみましょう。わたしは昔、反規制派であることを表明したうえで「ポルノ被害の問題も一方で考慮すべきだ」と言ったら、規制派扱いされたことがあります。もし、ある人物(Aさんとしましょう)が石原を当選させないためにかれらが都条例の改正部分撤廃を表明している小池氏ではなく、「よりまし」な規制派に投票し、その人物が当選したとします。10年後、もしかしたら店頭からエロマンガは一掃されているかもしれません。そのときAさんは「ああよかった、もしあのとき石原が勝っていれば、ネットですらマンガは読めなくなっていたはずだ」(石原と他の候補の規制論の差異はよく知りません)と言うかもしれません。しかし、先ほど紹介した基準からいえば、Aさんは正真正銘の規制派だと思います。いまいちど、つねのさんの記事から引用すると、

 キューバグアンタナモ米軍基地には、アルカイダとの関わりを疑われた数百人の人々が収容されています。彼らの多くは、裁判にかけられる予定もなく「無期限に収容」されています。また拷問が行われているという報告もあります。このようなことは、通常の法の枠内では正当化することが困難です。というわけで、アメリカではこのような収容が行われていいのかということが論争になっています。
 ジジェクによれば、ある討論番組で、次のような収容擁護論があったそうです*1。いわく、「彼ら(囚人)は爆弾が当たらなかった者たちである」。つまり、彼らは米軍の正当な軍事活動の対象であったにもかかわらず偶然に生きのびたのだから、彼らを収容することに問題はない。どんな状態であるにせよ、死ぬよりはマシなはずだ。彼らは死ぬはずの者たちであったのだから、彼らには何をしても許される、というわけです。

石原(松沢のほうが酷いという人もいます。この場合、両者を逆転させても構いません)の規制論は酷すぎるのだから、石原(松沢)が当選しなければ、どのような規制論者であっても「よりまし」な選択には違いありません。しかし、エロマンガの自由は既にそこで死亡しているのです。
 わたしは、わたしたちの正しい意志を示すこと、その意志を示すことのできる可能性があること、その一点においてのみ、選挙の価値を認めます。わたしは、Arisanさんがいう

ぼくは、東京や日本の大都市でこそ、ジェノサイドや差別に反対する明確な意志が、示されねばならないと思う。

という言葉に賛同します。こうした意志を示すこと、示すことができる可能性そのものが「現実主義」において否定されるのであれば、その「現実主義」は選挙そのものの価値を否定しているのです。
 わたしは「反石原統一候補」を今かかげることが可能だとすれば、それは小池晃以外にはありえないし、迷わず小池に一票をいれるべきだと思います。もちろん、わたしは「大同団結」をまじめに呼びかけるつもりはありません*1共産党に酷い目にあわされたひとは高齢者を中心に多数いるだろうし、そのような人は別に投票することはないと思います(ただ小池晃は無所属での出馬ですが)。かれの政策に特別反対すべき理由が無いのは、わたし自身がこの社会のマジョリティの一部だから、ということも十分ありうるでしょう。また、あなたがネオリベなら渡邊に、たけし軍団が好きなら東国原に、ファシストなら石原に、プチファシストなら松沢に投票すればいいわけで、それはあなたの自由です。しかし、もしあなたの引っ掛かりが、政策ではなく、世論であるなら――つまり、「現実主義」なるものであるなら、そんな「現実主義」は容赦なく捨て去るべきです。よりよき人物を我々が選択することではなく、数合わせゲームへの勝利こそが選挙の本質だとみなすのであれば、それこそが議会制民主主義へのシニシズムであり、議会制民主主義の死亡通告に他ならないでしょうから。
 わたしは、小池晃に投票すべき人が小池晃に投票することを呼びかけ、友人や知人に小池晃への投票を呼びかけることを呼びかけます。

和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080405/p1
 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。
 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。
 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。
 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ
(・・・)
 問題は、私が米粒ではなくて人間であるということを自覚するということではない。私は人間であって米粒ではない。私はそれを知っている。ところがそれを知らないニワトリに私は脅かされている――そういうカラクリを暴いてみても、それ自体がまた「ニワトリ」になってしまう。「メタル・ニワトリ」だ。そこで、なぜそういう存在しないニワトリに恐怖するのかということについて、経済的・心理的に分析したりすることになる。でもそれがまた「ニワトリ・キング」となってしまう。
 だから、「ニワトリの無知」の小咄から何かを学ぶのであれば、それはどこにもニワトリはいないから心配するなということであってはならない。そうではなくて、ニワトリに飲み込まれそうになってても、自分が米粒であるとしか思えなくても、あたかも人間であるかのように行動せよということである。
 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。
 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。
 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。
 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。
 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。
 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89 年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。
 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。

「人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。」
わたしもそう思います。そして投票所で名前を書くことは、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことよりも、チャウシェスクに対して革命を起すことよりも、ずっと簡単なことではないでしょうか?あたかも小池晃都知事に当選することが自明であるかのように。

*1:twitterでは皮肉でかいたけど、まあ皮肉だってわかるよね!

ボイコット記事FAQ

 昨日の記事について(いつのものことですが)主旨がきちんと伝わってないようなので、新たに説明しようと思いました。今回は誤読されたままブクマが伸びるとまずいので。
元の文章はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110305/p1

  • Q1:ボイコットって多数派の支持が得られると思っているからやるんだよね?多数で少数を押しつぶすことを肯定していいの?
    • A1:ぼくもまだ勉強中なのですが、いろいろな人から話をきくに、ボイコットとは必ずしも多数派の支持があるという確信をもって、あるいは実効性への確信をもってやるものではないそうです。テラカオ先生も言っているように、「ボイコット(不買運動)は、実際に当該サービスを「買わない」ことだけでなく、「支持しないから買わない」と表明することに大きな効果」があるのです。実際問題、このボイコット運動によってかれらを追い詰めるのは難しいと思います。しかし、たとえ一人だとしても、「わたし(たち)はあなた(たち)を支持しません」という表明を行うことは効果があるし、その表明の手段がボイコットなのです。
  • Q2:フランチェスコさんが名誉毀損で訴えればよい
    • A2:訴訟をするかどうかは当事者の主体的な判断で決めるべきことがらであり、外野がまずそのような空気をつくるのはよくないと思います。たとえば、かりにフランチェスコさんが訴訟しなかったばあい、つねこや黒い彗星が在特会を訴えなかったときと同様に、「なんで訴訟しなかったんだ」ということで、さらなる加害が行われる契機になりかねないからです。
  • Q3:言及すればするほど相手は有名になるよ。
    • A3:一理ありますが、ただ相手はすでに一定の知名度を獲得しているので、たんに相手を無視するだけでは、批判的な声が不可視化された状態で賛同の声ばかりが相手に集まるということになり、それはそれでよくないと思います。だからこそ、単に言及するだけでなく、賛同しないむねをはっきりと公的に言明する必要があると思います。
  • Q4:たしかに、めがねおうみたいな奴らは叩き潰さないとだめだよね!
    • A4:すでに本文に記したとおり、たんにめがねおう的なものをを外敵化して排除するのではなく、自分自身の中のめがねおうとも対峙すべきだと思います。在特会が鏡に映った日本社会そのものであるのと同様に、めがねおう的なものも鏡に映ったネット社会そのものなわけで、であるがゆえに、単に第三者としてかれらを攻撃するのではなく、自分自身もネット社会の一員であるような、この不当な事件を目撃した個人の責任として、わたしたちはかれらのやり方を許容しませんという意思表明をひとりひとりがすることが重要だと思います。
  • Q5:ボイコットって具体的にどうすればいいの?
    • A5:それはそれぞれが自由に判断すればいいことだと思います。たとえば、基本的には当該サイトをクリックしないことですよね。でも、わたしははじめからそういうのに興味ないから比較的容易にそれができますが、もしサイトの内容に興味がある人であれば、それは難しいことでしょう。そういう人は、毎日クリックしたいたのをたとえば1週間に1回にするとかでもいいのだし、とにかくボイコットを宣言し、実行するってことが大事だと思います。

meganeou氏、ksorano氏、egachan氏が関係するあらゆるメディアをボイコットしよう!

経緯は*1

http://togetter.com/li/107425
http://togetter.com/li/107776
http://togetter.com/li/107852
http://togetter.com/li/108293

捕捉として

「そらの的あさのニュース 2.3.11」の内容まとめ
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20110305/1299333484
えがちゃんがfrancesco3氏のtwitter発言を捏造
http://anond.hatelabo.jp/20110304170215

 既にご存知の方も多いと思いますが、近日、twitter上で、@meganeou氏が@francesco3氏にたいして名誉毀損に値するような一連の罵倒ツイートを行いました。さらにその後、@ksorano氏が自身の番組「そらの的あさのニュース 2.3.11」において、@meganeou氏とともに@francesco3氏にたいする二次加害を行い、@francesco3氏がそれに抗議すると、その対応として今度は@ksorano氏およびかのじょが所属する会社ぐるみで三次加害、四次加害をくわえ続けています。さらに、@meganeou氏が編集長をつとめる「非モテタイムズ」の配信元である株式会社ホットココアの社長@egachan氏が、@francesco3氏のtweetを捏造して存在しない会話をつくりあげるという意味不明の行動に出るなど、この件が問題化すれば問題化するほど@francesco3氏が被害をこうむり続けるという不当なことが起っています。このことは、少なくとも上記のつぎゃったーおよび捕捉記事を読むだけで理解できることです。
 確かに、この事件において@meganeou氏たちの態度が酷すぎることは一目瞭然なので、はてブコメントやtwitterにおいては、@meganeou氏らが劣勢であり「炎上」しているように思えます。しかし、本当に@meganeou氏たちの支持者は少数派なのでしょうか。@meganeou氏たちは確かに今回、極端に酷すぎたので攻撃のターゲットとされました。しかし、かれらのポリシーであるジャーナリズム哲学、たとえば「読者が望めばなんでもやる」「ダダ漏れ」などの発想じたいは、その批判者たちの多くがはっきり否定していませんし、じじつ「その部分は共感するけどしかし・・・」的なコメントも多く見られました。
 ですが、今回の事件を生んだものが、まさに「読者が望めばなんでもやる」「ダダ漏れ」などの発想そのものであることは明らかです。@egachan氏などは「炎上マーケティング」の第一人者とされているわけですが、それが一定の成功を収めているのは、ネットにおいてそのような土壌が少なくともあるということです。今回の「炎上」は偶発的におきた事件ではなく、ネットが潜在的にもっている根本的な問題の一部として考えるべきでしょう。仮に@meganeou氏一派が消滅したとしても、同じことはこれからも起き続けると思います。
 「当事者」ではなく、たまたま不当なことを見かけてしまった一個人たちの集まりであるわたしたちは、「当事者」の「代弁」ではなく個人としての責任において、この事件を批判的に考えなければいけません。@meganeou氏一派をトカゲの尻尾として切り離すのではなく、むしろ自分自身に@meganeou氏的なところはないか?あるいは、かれら以外の良心的なネットメディアのひとたちも、今は@meganeou氏一派に批判的だけど、実際問題としてかれらの中にも@meganeou氏的な部分があるでしょう。
 とはいえ、一億総懺悔的な発想で、この問題をうやむやにするのではなく、自らの、そしてネットの、@meganeou氏的なものに対して、ゆるさないという態度を、公的に表明することが重要だと思います。そのやり方はケースバイケースですが、今回の場合、「そらの的あさのニュース 2.3.11」にしろ「非モテタイムズ」にしろネットメディアなわけですから、まずは、そうしたメディアを利用しない、というボイコットの方法が可能です。
 自分が見ないだけでなく、身近な友人や知人にたいしても見ないことを呼びかけ、また、もし友人知人がライターや関係企業のひとであれば、@meganeou一派のメディアには出演・執筆しない、あるいは取引を行わないよう呼びかけることもしていくべきだと思います。実効性を云々する前に、「ダダ漏れ」「読者至上主義」「クズだからこそ」を前提とし、そのせいで傷つけられたものに対して、「リテラシー」という名の自己責任原則を押し付けるようなメディアは、@meganeou一派のものだけでなく、わたしたちは一切ゆるしませんという態度表明をすることが重要だと思います。
 みなさん、一緒にボイコットを行いましょう。
 もちろん、ボイコットに賛同しないとしても、あなたがもし不当な行為の目撃者であったならば、あなたの、あなたなりの方法で、公的に、あなたの意志を表明することを呼びかけます。
 
 
注釈:
ボイコット記事FAQhttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110306/p1/

*1:これもいれたほうがより酷さがわかるよ、ってのがあったら募集

約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論

 今、魔法少女―変身ヒロインとしての―概念は危機に晒されている。『魔法少女まどか☆マギカ』に群がるキモヲタとサブカル評論家たちは、魔法少女概念を蹂躙し、ずたずたに引き裂こうとしているのだ。それが最終回を迎える4月ごろには既に、この王国には荒れ果てた大地しか残されていないだろう。われわれは簒奪者たちの手から魔法少女概念を救出しなければならない。それも、正しい魔法少女概念を、である。そのためには、『まどか☆マギカ』の正しい批評が必要なのである。それは、政治的な批評でなければいけない。実証主義の良心は認めなければいけない。だが、啓蒙的な実証主義は、悪意に満ちた大衆の前では無力である。かといってわたしは、大衆向きにアレンジされた世俗的な神話体系のひとつであるところの、魔法少女概念の「偽史」を構築しようと欲するものでもない。それは自己欺瞞であり、批評のための批評にすぎない。重要なのは理念であり、理念に従属する批評が必要なのだ。魔法少女概念は、パースペクティヴによってではなく、理念によってのみ救済されるのである。
 本来、わたしはこの作業を、最終回の放映終了後に行おうと思っていた。しかし、情況の進展は予想以上のものだった。最終回まで待っていれば、そこにはもうぺんぺん草さえ生えていないかもしれない。そうなってしまえばもう手遅れである。多少の不都合や論の甘さには目をつぶって、この文章はなるべく早くかかれなければいけない、と判断した。ただし、理念そのものは『まどか☆マギカ』の今後の展開に関わらず普遍的なのであって、したがって、もしこの論考と『まどか☆マギカ』の結末に矛盾があったとしても、それはその結末のほうが間違っているのである。製作者は信用できないのである。たとえ理念に従った魔法少女概念こそが唯一正しいものだったとしても、世の中のヲタクたちに受け入れられるのは退廃した魔法少女概念のほうであり、製作者がそれに流されてしまうのはやむをえない。ただし、それは理念の堕落した形態であり、正しい結末からは逸脱したものだと判断されるのである。
 
 『まどか☆マギカ』を論じるにあたって、まず言っておかなければいけないのが、今まで放映されてきた中で明らかになりつつある魔法少女の設定を見て、この作品が新しい魔法少女概念を提示している、あるいは、今までの魔法少女概念にたいする「アンチ」魔法少女物語である、と判断するのは、愚かな過ちであるということである。なぜ、この物語には、異なる理念の、異なる背景の、複数の魔法少女がいるのか?魔法少女のバトルロワイヤルという相対主義的な観念に飛び込むのは早計である。では、なぜ主人公がいままで変身していないのか?それは、主人公こそが魔法少女だからである、つまり、真の魔法少女はまどかのみだからである。それに伴い、まどか以外の魔法少女はすべて失敗として描かれなければいけない。あらゆる物語において、主人公である三男は兄二人の失敗のあとに出発し、成功を手にするものなのである。世界の救済役がまどかに割り振られているのは自明である。救いのない設定は、まさにそれを救済するべきまどかを際立たせるための引き立て役にすぎない。
 つまり、今まで登場した魔法少女の設定や魔法少女たちの精神をいくら検討したところで、それは本質ではないのである。しかし、しばしばamamako氏によって擁護されるようなキモヲタたちの退廃した精神は、蛸壺屋的な鬱屈した魔法少女を好むので、まさにその引き立て役のほうこそが魔法少女概念の本質だと思い込むのである。愚かな不見識と言わなければならない。その設定に基づく魔法少女たちの悲惨が、いかにキモヲタたちの心に慰みを与え、また彼らにとって数少ないコミュニケーションのツールとして機能しようとも、それは最終的には当然のように克服されるべきものなのであって、そのときが訪れるやいなや、すべての魔法少女は救済されるとともに、まるでティプトリーの小説のごとく、かれらは取り残されるのである。
 愚かな人々は、『まどか☆マギカ』における契約概念の理不尽さを、この物語の本質として問題にしたがる。だが、契約概念は、最初から克服されるべきものとして存在しているにすぎない。そもそも魔法少女の契約が、暴力的に行われることは珍しいことではない。むしろ、契約概念一般が、暴力的なものを抜きにしては成立しえないのである。魔法少女概念において、その暴力は、しばしば運命とよばれる。運命が暴力の所有者であり、(しばしば誤って認識されているように)魔法少女の契約相手、たとえばお供―キュゥべえのような―がその所有者なのではない。お供はすべてを知っているようにみえて、運命が猛威を奮いだしたとたん、一瞬にして化けの皮がはがれ、その無能さを発揮する。クイーン・アースはナースエンジェルの真実に対して無力であり、奇跡に頼る以外残された道は無い。この意味でキュゥべえの残酷さはかれの隠された本性に属するものではなく、お供という役割の限界がそうさせているのであって、むしろ無能さの現われとして理解されるべきである。
 契約が暴力的運命と結びつくのは、それが世界を規定する法において定められたものだからである。契約の内容ははっきりしている。魔法少女魔法少女となるかわりにある願いをかなえる(「奇跡」という名でよばれてはいるが、真の意味での奇跡ではない。それは、以下を読めばわかるであろう)。だが、一方でその全容は魔法少女たちに知らされてはいない。それはある意味で不当な契約に思える。しかし、あらゆる魔法少女は、まずは、この不当な契約を前提にして出現するのである。契約ということばが相応しくないとすれば、単に交換といってもよい。といってももちろん、それは普通の意味での交換ではない。象徴化された物語の中で、資本主義的な経済関係の基礎をなす神学的な根源が明るみに出る。彼女たちはいわば、罪と贖罪を交換するのである。
 魔法少女が存在しうるあらゆる世界には、その世界を規定する法がある。しかし、その法は不文律なものとして存在する。魔法少女は、何も知らぬままにその法を侵犯し、法の侵犯によって、罪が与えられる。つまり、魔法少女となるのである。魔法少女は罪を贖うための存在である。まったく知らなかった法だったとしても、それに違反したことによって、一方的に贖罪を負わされるのである。『まどか☆マギカ』の世界においては、魔法少女の罪は「願うこと」である。彼女達は「願い」という罪を犯したために、魔法少女になることでその罪を贖う。しかしその願いは願わずにはいられなかったものであって、それを単純に不運と呼ぶことはできない。むしろ罪と贖罪の交換を規定している法がそこにあったことが彼女達において決定的だったのであり、ゆえに、法的な意味においては、それは運命と呼ばれるのである。
 法的な意味においての運命はしかし、単に法を侵犯したことに対する処罰としてのみあるのではない。それは、魔法少女たちが法を侵犯するその都度、「契約」として、新たな法を打ち立てる。つまり、その時点における単なる瞬間的な罰ではなく、罪を与え贖罪を担わせることによって、その交換関係において成立する権力構造の中に魔法少女を引きずり込むのである。賢明な読者は既に気づいているだろうが、この暴力的な運命こそ、ベンヤミンが「神話的暴力」と呼んだものに他ならない。

原像的な形態おける神話的な暴力は、神々のたんなる顕現にほかならない。神々が抱く目的の手段ではなく、神々の意志の顕現でもほとんどなく、まずもって神々の存在の顕現なのである。ニオベー伝説は、この顕現の傑出した一例を含んでいる。たしかに、アポローンとアルテミスの行為は処罰にすぎない、と見えるかもしれない。がしかし、この行為の暴力は、なんらかの現行の法を犯したことに対する処罰であるというよりもずっと、ひとつの法を打ち立てるものなのだ。ニオベーの高慢が、宿命を、己れの身のうえに呼び出す。それは、この高慢が法に違反するからではなく、運命をある闘争へと挑発するから、つまり、その闘争においては運命が必ず勝利し、しかも、勝利したとなるとそこにひとつの法を出現させずにはいない、そのような闘争へと挑発するからである。(・・・)この暴力は、本来、破壊的ではない。この暴力は、ニオベーの子供らに血まみれの死をもたらすにもかかわらず、母(ニオベー)の生命には手を下さない。母の生命を、この暴力は、子供らの死によって――ほかでもなくまさに――以前よりもさらに罪を負ったものとなし、沈黙したまま永遠に罪をになうものとして、また人間と神々のあいだの境界石として、あとに残すのだ。
(W・ベンヤミン著、浅井健次郎訳「暴力批判論」『ドイツ悲劇の根源(下)』ちくま学芸文庫p264-265)

まどか☆マギカ』の魔法少女たちを魔法少女となし、その使命(魔女との戦い)に追い立てる暴力は、キュゥべえの暴力ではなく、まさにこの運命の神話的暴力である。ソウル・ジェムは彼女達にとって、象徴的な境界石なのだ。その境界石こそが、契約の証であり、つまり贖罪の証である。そしてまたその石こそが、罪によって暴力的に与えられた世界の新しい解釈のしかたを、新たな法として保証するのである。さやかは巴マミの死後、別の世界にいるようだというまどかに向かって、世界はとっくの昔に変わっていたのだと主張する。外部によって挿入された世界の主観的な変容を、自身が内なる法として遡及的に受け入れることによって、魔法少女の契約は成立する。さやかが魔法少女となるのは、キュゥべえとの直接の契約においてではなく、その瞬間においてなのだ。
 しかし、世界が既に変容したものとして認識されるとき、魔法少女が魔女との戦いにおいて守ろうとしている世界は、いったい何なのだろうか?魔法少女の守るべき日常が、とっくの昔に変容していたのだとすれば、魔法少女はもはや守るべきもののなかにはいないはずである。だが、世界の変容を認識することが魔法少女になる条件であるとすれば、彼女達は守るべきものを守るために、守るべきものから離れなければならないのだ。逆に言えば、魔法少女は守るべきものから離れることによって、そのことのみによってしか、守るべきものを守れない。このことは、法を擁護するためには法を停止しなければいけないというあの例外状態のアポリアに重なる。
 まどかやさやかたちにとって、それまでの世界は平和で秩序にそったものとして見えていた。だが、魔法少女と魔女の存在を知ったとき、その世界は耐えず魔女と「奇跡」の挿入において脅かされうる、アノミーな空間として一変する。たが、この二つは相互に独立した世界ではない。前者の世界を成立させているのは後者によってである。後者がどのようなものとして前者に介入するかによって、前者の平和は保たれたり、保たれなかったりするのだ。魔法少女は後者の世界に属するものとして、アノミーな力をふるう。しかしそれは前者の世界を守るために、である。魔法少女は秩序とアノミーの綱引きのなかで、その境界線上にあるどちらともいえない空間――例外状態において戦う。
 だが、われわれはその境界線が、運命の神話的暴力によって引かれたものであることを忘れてはならない。例外状態とは法の停止であるとともに法の創出でもあるというあのテーゼに従えば、世界の自明性の喪失はそれまでの法に対して破壊的であるようにみえるが、それと同時にそれは、世界の喪失という新たな法を打ち立てるのである。革命的な運動として出発したファシズムがもっとも反動的な体制となったのはまさにこうした理由からだし、だからこそそれはニーチェハイデガーの思想と接続しえたのである。もちろんライトノベルで流行の異能物というやつは、その多くはあまりにも退廃的であるので、世界喪失をまさに自明なものとして描き、そのなかで行われるサバイバルをロマン主義的な快楽として消費する。しかし、われわれはこのような性格を魔法少女物に持ち込んではならない。魔法少女の理念は本来、そのような境界線のなかでの戦い、つまり罪と贖罪の交換関係の中での戦いに対して、それ自体を根源的に破壊するものなはずだからだ。
 『まどか☆マギカ』に今まで登場した魔法少女たちは、境界線の中から脱することができてはいない。さやかは境界石がもつ神話的暴力に屈し運命を受け入れてしまったからこそ、あのように神話的暴力の装置と化す以外にはなかったのであるが、杏子はその暴力に気づき始めている。だが、この逃れがたい運命の暴力から脱しうるかに見えた巴マミは、まさにそのことの罰として死ぬのである。マミの死が二人、とくにさやかに与えた影響が絶大なのは偶然ではなく、その死は彼女達にたいして運命の力を見せるける格好の道具であったのだ。さらに、そのような運命の力に自覚的であるほむらはより狡猾に立ち回ろうとしているが、おそらくほむらの人なる力では、運命に打ち勝つことはできない。運命の暴力に勝ちうるのは努力ではなく才能であり、無資格なものはそれを行いえない。
 もちろん、まどかこそが有資格者なのである。その兆候は確かにある。彼女は起きている出来事にとまどい、また無力であるが、根源のところにおいて、けして世界に穿たれた境界線をみとめようとしない。そのようなまどかが魔法少女となったとき、真の奇跡が生じるのであり、真の救済が行われるのである。運命に与えられた罪を贖罪するために振るわれる暴力ではなく、その罪と贖罪の交換関係そのものを破壊する暴力が―つまり神的な暴力が―振るわれる。理念的な魔法少女とは例外なくそのような純粋暴力の所有者であり、少なくとも最終回までにはその力を行使してきた。もちろん『まどか☆マギカ』においても、まどかは最終回までにはそのような救済を行うはずである。その瞬間はじめて、今まで登場してきた魔法少女たちすべてが救済されるのである。
 
 したがって、『まどか☆マギカ』は(少なくとも現時点では)、制作者の悪意―それ自体は糾弾すべきものである―にも関わらず、今までの魔法少女物からはまったく逸脱していない。神的暴力を振るうどころか自らが神話的暴力の大元締めとなった、あの堕落した魔法少女概念のひとつである『リリカルなのは』とは同じカテゴリーには所属されないのだ。『リリカルなのは』は魔法少女の理念をまったく理解していないキモヲタたちの保守革命*1によって犠牲となったのであるが、われわれは『まどか☆マギカ』をそのような者の手から守る必要がある。そのためにも、この魔法少女の理念を、今あらためて認識しなければいけないのである。
 

続編(4/25追加):まどかの救済、あるいは背中のまがったこびとの話
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110425/p1
 

*1:この「保守革命」という語用については、保守革命モダニズムの範疇(たとえばJ・ハーフが「反動的モダニズム」と呼んだような)にあるがキモヲタはプレモダンの範疇にあるのではないか?という批判を受けた。この件については継続的に検討をしていきたい(2013年)。