改憲とか

明治憲法が発布された際、庶民はその内容も知らずただ喜んでいた、というのは良く知られたエピソードだが、これはそうも日本に限った話ではないらしい。たとえばバーデン大公国では1818年の憲法の制定に対して、各地域共同体が政府に感謝状を贈ったり、自主的に祭典が開かれたりということがあった。ところが、この憲法には地域共同体に関する言及は一切無く、ある面ではむしろその機能を制限するような性格のものであったのである。
憲法を「不磨の大典」として考えるのは日本特有の思考ではなく、憲法自体が普遍的な性質として「不磨の大典」性を持つと考えるべきだろう。憲法を国家と国民の契約関係として考えることは確かに重要だと思う。しかし、だからといって、憲法が制定されることで国民国家が遡及的に「歴史性」を持ち、統合が進む(善悪は別として)という古くから指摘されている事実が、否定されるというわけではない。
英語のConstitutionが元々は「体」という意味であり、ドイツ語のVerfassungが元々は「状態」という意味であることは、初期立憲主義時代には憲法とはそういうふうに、つまり「国体」や「国の状態」と同じものとして考えられていた証左だろう。
だから、単純に「憲法の絶対化は良くない」という議論はちょっとなあと思うのだ。国民国家における憲法とは多かれ少なかれ崇高性を持っているものであって、さらにそれは一定の機能を果たしているものであって、それが無いフリをしてはいけないんじゃないだろうか。