で、我々の後の世代が、我々の世代がが『スレイヤーズ』を評価するのをうさんくさく感じるのも、なんとなく理解できる。我々の世代で『スレイヤーズ』を第1巻初版から読んでいる人間は恐らくいない。つまり、我々の世代は『スレイヤーズ』が世間に受容された後に、『スレイヤーズ』にハマった世代だと思うんです。そうしたとき、我々の世代にとっての『スレイヤーズ』の受容のされ方は、たとえば「既存のファンタジーに対するスラップスティックなパロディ云々」といったものでは無かったはずなんです。『スレイヤーズ』は、『スレイヤーズ』的なものとして、既に歴史化されてそこにあった。『スレイヤーズ』を好きになるのに、『スレイヤーズ』特有の何かは多分いらなくて、もっと素直に好きになっていた気がするんです。であるのに、『スレイヤーズ』を評価する際、「ラノベ史あるいはオタク史における『スレイヤーズ』」という文脈で語る。これは『スレイヤーズ』に関心が無い世代、『スレイヤーズ』の最初の受容がアニメだった世代にとって見れば、どう考えたって嘘臭い。「『スレイヤーズ』の歴史的意義と、『スレイヤーズ』が好きだったお前の話は別じゃん?」みたいな。「歴史」と「記憶」は別なはずなのに、何故かオタクの世界においてはこの両者が一緒くたにされていて、そうであるならばどうしたって世代間での殴りあいになるよなあ、という気がします。