差別よりも残酷な

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51012727.html
食肉業者が差別される理由に関してはいろいろ言いたいことがあるがここでは扱わない。
だいたいのことはhttp://d.hatena.ne.jp/yodaka/20060511/1147377031を読めばよくて、まさにこの記事自体が既にカウンターになっているのだけれど、とりあえず別の話をする。
つまり、食肉業者が差別されているとして、差別する側には二つのタイプがあるということだ。一つ目は、本当に食肉業やその他の属性を蔑視しているタイプで、もう一つは「私自身は食肉業者に対して蔑視感情は持っていないけれども、このような社会情勢あるいは彼ら自身の事情を考慮すれば、差別されても仕方が無い」として、直接の差別はしないまでもその差別が起こりうる状況を様々な形で結果的にサポートする。たとえば1930年代のドイツ人は皆が皆コテコテの反ユダヤ主義者では無かったけれども、主には後者の自己弁護によってナチス勢力の伸張を許し、ホロコーストだって実は多くの人が知っていたのだけれども、それは仕方が無いことだとして沈黙し、あるいは直接的・間接的に荷担した。
それはともかく、食肉業者のみならず、食肉産業全体を見れば、我々先進国の人間が食べている廉価な牛肉生産は、実は途上国の人々を搾取することによって成立しているということは最早常識である。もはや殺すものと食べるものの分離だけでなく、飼料を生産するもの、牛を生産するもの、牛を殺すもの、牛を調理するもの、牛を食べるもの、そしてこの一連の流れをお膳立てするものがいる。これらの過程全てが、圧倒的に暴力的なシステムとして成立している。牛を殺すものと牛を食べるものの関係に着目することはもちろん無意味ではない。しかし、その関係だけに着目して議論し、何らかの世の中の不条理を見出して納得する、という行程を取ろうとするなら、それは全然足りていないと言わざるを得ない。牛を殺すものは食べるものにとって単に「私のために殺生してくれた人」なのではない。屠殺という行為にある種の罪悪性を見出すかどうかは価値判断の問題だが、そうした問題に関係なく、我々が牛肉の生産消費システムの一部にある以上、我々が彼らに屠殺をさせているのだ。この観点から言えば、「私のために殺生してくれた人」と言うことでさえ欺瞞となり得る。政治的・社会的諸関係を一切排除して我々は彼らをまなざすということである。それを我々は「弔い」と呼ぶのではなかったか。

弔いの行為はすでに逃げ出すときから、イリヤを取り巻く現実を知ったときから始まっていた。逃げ出したとき、すでに浅羽の中で、イリヤは死んでいた。浅羽にとっては、あとはどうやってイリヤを忘れるかだ。

現実は混沌としていて、美しさとは対極にある。美しい行為は、終わったあとの行為だ。彼岸の行為。
 
(…)

でも、それは愛なのだろうか?
 
浅羽が見ていたイリヤは、浅羽の自己満足からどれだけ自由だったのだろうか?
 
愛は、結局自己満足に過ぎないのだろうか?
 
浅羽にとってイリヤとの恋は、自己完結の物語。それは既に死んだ相手と紡ぐ物語。弔いの物語だった。
 
イリヤの空、UFOの夏」−「殉死」とは他者が排除された物語
http://d.hatena.ne.jp/repon/20080206#1202273274

たとえば靖国の問題である。まさに特攻隊員を死に追いやった国家システムのトップたちが、「特攻隊さんありがとう、私達のために戦ってくれて」と言う欺瞞である。

現実は混沌としていて、美しさとは対極にある。美しい行為は、終わったあとの行為だ。彼岸の行為。

浅羽はイリヤにありがとうとは言えない。変わりに良かったマークを描くのである。それはイリヤへの弔いであり、忘れるための行為である。
食肉業者への感謝(あるいは敬意なのか)、無能なものたちへのベーシック・インカム、敗者に対する自己責任アレゴリー。これらは全て、根底では同じだと言えないだろうか。彼らは全て彼岸にいて、その彼岸にあることを当然であると示すために、弔いと忘却の儀式を施すのだ。
私はあなたたちが悲惨な目に置かれていることを知っているし、それを残念に思う。しかしそれはどうにもできない(できなかった)ことなので、私はあなたたちを弔い、忘れる。
これは差別よりもある意味残酷である。差別なら抵抗することが出来る。しかし、弔われ。忘れ去られた者に抵抗がどうして出来るだろう?

では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。

前回のエントリでぼくはこう書いた。確かに社会に住んでいる諸個人の視点からいえば、彼らはお荷物な厄介者とはみなされていないかもしれない。しかし、社会そのものからは既に弔われている。ゆえに暴力をもってその自己主張はなされるのだ。
もう一つ言っておくべきは、弔う/弔われるはけして固定的では無いということだ。社会の様々なレベルで私達は意図せずとも誰かを弔い、あるいは弔われているかもしれない。そして自己責任社会はこれを土台にしてつくられるのである。