「ほのめかし」の暴力

■クリスマスイブ
http://anond.hatelabo.jp/20081225032012
「だって、だってさwwwお前みたいなブスに告るわけないじゃんかwwwwwwわきまえようぜちょっとはwwwwwwwひぃっいひいっひいっ、はらいてーー」
なんか私も、怒りというか、恥ずかしさの方が先にきて、さすがにブスブス言われ続けた自分もこういう経験はちょっとなかったんで、
「え、あ、なんだーそういうことかーwwwちゃんとそういうことは言ってくれないとwwwww」と笑って誤魔化してしまいました。反射的に。

■オメラス再訪
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200405.html#25_2
うがった見方をしてみるならば、語り手が述べているのは、つまり自分のことではなかろうか。
「私の心の奥底にも、悲惨な子供が居るのかもしれないよ?」
「私もまた、心の奥底で『この町を離れよう』と思っている人間の一人かもしれないよ?」
ということを、聞き手に信じてもらいたいのではないのか。
 そして、オメラス住民が一人黙って行動するということは、結局のところ、聞き手によって自分が理解され尽くしてしまうことを拒絶する態度、
「でも、私が本当に、そういう人間なのかどうかは、貴方には決して教えてあげない」
ということに対応しているのではないのだろうか?

上の増田記事に書かれたバカ男(とその女友達)が元増田に対してああも醜悪な権力を振りかざせるのは、彼らが元増田が知らない(と彼らは思っている)隠された「真実」―ブスに告白する男なんていない―を握っているという確信ではないのか。

■どう見てもバカなあいつのこと
http://d.hatena.ne.jp/flurry/20080116#p1 
自分のことに比べて、あいつのバカさ加減はなんと自明に思えることでしょう! さらに言うならば、ある種の信念は、他人と自分との認識のギャップであったり、無知な他人が居るという信念だったりに支えられているのではないでしょうか。

「私はあなたが知らない『真実』を教えてあげる」という立場に(半ば無意識に)立つことによって、まさにクズとしか言えないあのような行為が、彼らの中で何の罪悪感も無く実行できてしまうのではないだろうか?
「賢い」人間はもちろん上の増田記事のような醜悪な行為は、人として間違っていることを知っている。でも、われわれ自身や、われわれの社会が、バカ男たちにとっての元増田をつくることによって成り立っているとしたら?

■略奪や強姦を行っていると想定される誰か――ニューオーリンズにおける現実とファンタジー
http://d.hatena.ne.jp/flurry/180010#28
我々はサンタクロースの慣習を通して、これと同様のことを我々の子供たちに対して行う。
 子供たちはサンタクロースのことを信じている(と考えられている)。我々は子供たちを失望させたくない。そして、子供たちは彼らの純真さに対する我々の信頼を傷つけることで我々を失望させないために(そして、もちろんプレゼントを貰うために)サンタクロースを信じるふりをするのだ。
 また、「私のことを信じてくれている普通の人々を失望させることは出来ない」というのは、不正を働いていると疑われる政治家が誠実なふりをしようとする際の、いつもの言い訳ではないだろうか?*1
 さらに言えば、この『本当に信じている』誰かを見つける必要性というのはまた、他人に「原理主義者」(宗教であれ民族であれ)という汚名を着せようと我々を駆り立てるものでもある。薄気味悪いことだが、ある種の信念は常に「距離を置いて」機能しているようなのだ。
 信念が機能するためには最終的な保証人が居なければならない。そしてその保証人は常に延期され、置換され、直接には("in persona")決して現れない。もちろんポイントは、信念が機能する上ではこの「直接信じている他者」は現実に存在する必要はなく、その他者の存在を前もって仮定する(presuppose)だけで十分だということだ。言い換えると、何かを信じるためにはその口実として、未開人としての「他者」や非人格的な「誰か」(「それを信じている誰か……」)が必要なのだ。

こうした「真実」はサンタクロースのように、ふつうは語られることはないし、語られるべきではない、と思われている。でも、もし目の前にサンタクロースを無邪気に信じている子どもがいたとしたらどうだろう。ああ、この子にサンタクロースの不在をそれとなく伝えたい!という欲求が沸いてこないだろうか?「隠された真実」を知っている「かもしれない」(でも教えてあげない)ということを「ほのめかす」。わたしは今このように発言したが、その発言には深遠な計算があるのだ――(でも教えてあげない)。あなたは断片的な情報で判断している――(わたしはあなたの知らない「行間」を知っている)。
しかし、それを教える気が無いなら、そのような「ほのめかし」は無意味であり、隠された「真実」という審級を握るということにおいて暴力的でもあるばかりか、病理的でさえある。

http://d.hatena.ne.jp/flurry/180010#25
 もちろん、脅威の感覚は本物の無秩序と暴力によって喚起されたものである。嵐がニューオーリンズを通過した後、空き巣や生活必需品を探し漁ることなどの程度で略奪が起こった。しかし、このように犯罪が(きわめて限定的な範囲であるが)実際に起こったということによって、法と秩序が全面的に崩壊したという「噂」が免罪されることはない。これは噂が「誇張されていた」からではなく、もっとラディカルな理由に基づくものである。
 ジャック・ラカンは、たとえ妻が本当に他の男性と不義を働いたとしても、患者の嫉妬は病的状態とみなされると主張した。同様に、たとえ1930年代初頭のドイツにおいて、金持ちのユダヤ人が「実際に」ドイツの労働者を搾取し、労働者の娘たちを誘惑し、人気のある新聞雑誌を支配していたとしても、ナチス反ユダヤ主義は病理学的には「正常ではない」のである。なぜって? 全ての社会的な敵意の原因が「ユダヤ人」――異常な愛憎の対象、魅惑と嫌悪感との入り混じった幻影的造型――へと投影されていたからだ。

隠された「真実」の「ほのめかし」は、それを知らない人たちに(「真実」があるということを)教えてあげるのだ、ということにおいて、ときに善意とさえ解釈されることもある。しかし、われわれにそれを言わせる動機は、まさにあのバカ男のように、間違ったものなのではないか?
何が言いたいかというと、元増田には次の文章を読んでほしいなと思ったってことだ。もちろん、「無知な誰か」がいるとみなし、また「無知な誰か」とみなされる、ぼくも含めたすべての人びとが読むべきなのかもしれないけれど。

大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080407/p1
 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。