江戸時代に戻ってもいいじゃないか

先月のシノドスシンポで酒井隆史さんが、(反グローバリズムなどの運動に対して)資本主義をやめたら江戸時代に戻ってしまうって言う人がいるけど、別に江戸時代に戻ってもいいじゃないかって言ったほうがいいというようなことを言っていた。
まさにそのとおりだと思う。極論って言う人がいるけど、江戸時代に戻ってもいいじゃないかが極論ならば江戸時代に戻ってしまうは何なのだろうか。リアリズム?確かにそうかもしれない。でもそのリアルは、ネトウヨがよく言う民主党が政権を握ったら中国の植民地になってしまうというたぐいのリアルだろう。蓋然性の問題ではなくて心性の問題として。

ボーデンハイマーはこの点を、父親にたいする子どもの質問を例に挙げて説明している。「お父さん、空はなぜ青いの?」子どもは本当は空そのものには興味がない。この問いの真の狙いは、父親の不能、つまり空が青いという動かせぬ事実を前にしたときの無力さ、その事実を実証できず、その証明に必要な一連の論証を提示できない無能さを暴露することである。したがって空が青いということは、父親の問題になるだけでなく、父親の落ち度にもなる。「空は青い。なのにあんたはそれについて何ひとつできず、馬鹿みたいにぼんやり眺めているだけだ」。問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけであっても、つねに主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。つまりこの事実を前にしたときの無力さの責任を負わせるのである。
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』p272-273)

資本主義の論理の名のもとになされた不正義にたいする告発に対してしばしばなされるシステムの名を借りた反論まがいのものは、結局のところ例外状態を常態化することで、なされた不正義を不問にするという点において、恫喝以外の何者でも無い。つまり今まで問題にされていた資本主義の不正義が後景化し、批判者の無力さが問題になるのだ。
したがって、江戸時代に戻るぞという恫喝にたいする返答は、江戸時代に戻ってもいいじゃないかでしかありえない。そう言う事によって、何が不正義なのかの軸を我々は保ち続けることができるのだ。