「野蛮」に対する敵対

冷静に「合法的に」論理的に事を進めようとする「文明国」日本と、感情的で「不法で」非論理的な「野蛮な」敵対者という構図が大好きな人がいます。
たとえば竹島教科書記載問題をみてください。彼らの韓国の抗議者にたいする視線は、まさに「文明国の」植民地主義者が「野蛮な」現地人を見る視線です。つまり、上から目線の侮蔑です。あるいは捕鯨問題でもいいでしょう。感情的な反捕鯨国とデータに基づいている論理的な日本という図式でこの対立を見ようとする人はエントリのブクマなどを見ればそこかしこにいますね。あるいは死刑問題です。死刑存置のほうがどちらかといえば「野蛮」とみなされるようなこの事例でさえ、彼らはキリスト教という宗教的理由で廃止した「狂信」国と「無宗教の」合理的精神に満ち溢れた日本という対立に転化させてしまうのです。本当は自身の溜飲を下げたいがためだけだとしてもです。
このような二分法は今にはじまったことではありません。歴史家の加藤陽子は、まさにこうした二分法が、満州事変から日中戦争へと至るエネルギーであったといいます。

これまで、商祖権の問題と、満鉄併行線禁止問題をとりあげて、やや細かく検討してきました。そもそもの問題となった条約あるいは取極が最初に日中間に締結されたときには未だいきていたリアルな認識が、論争の過程で失われていったこと、そしてきわめて原理的な対立として、不退転の決意で問題化されてしまったことがわかります。満州事変が起こされる以前にすでに、完全な二分法による、絶対的な怒りのエネルギーが蓄積されていた様相がうかがえるのです。戦争をおこなうためのエネルギーの供給源は、まさに国際法にのっとって正しく行動してきた者が不当な扱いを受けたという、きわめて強い怒りの感情でした。(p268)

ぼくは別に歴史は繰り返すといいたいわけではありません。そうではなくて、「文明人の」「野蛮人を見る視線」という、一見「大人の」態度は、より戦争のような相手の殺戮に至る攻撃性を秘めているのだということです。
初期カール・シュミットによれば、どちらが正しくてどちらが間違っているわけでもない政治的な敵対は、それ自体他方の殲滅を意図しません。しかし、政治的敵対を超えてその対立が道徳的敵対の様相を帯びるとき、間違っていると見なされた相手は敵よりもむしろ犯罪者として殲滅の対象となるのです。したがってシュミットは、戦争を抑止するための正義の戦争があるという「正戦論」を批判し、戦争をあくまで政治的な範疇にとどめることによって、逆に戦争の発生を抑止しようとしました。
この議論は多分に問題を孕んでいて、たとえばあらゆる戦争に原理的に反対なぼくは彼に不同意わけですが、少なくとも我々は「正義の」イラク戦争の帰結がグアンタナモ―まさに後期シュミット的な―であったということは知っています。言うまでもなくグアンタナモは、あの韓国や反捕鯨のデモ隊に対して彼らが投げかける視線と同じ視線によって支えられているのです。
その証拠に、彼らは日本国あるいは日本人の法遵守を誇示するにも関わらず、たとえばサミット反対のデモに対する警察の不法な弾圧には非常に寛容です。なぜならば、その不法行為は「例外状態」においてなされるやむをえないものだからです。
よって、竹島教科書記載問題に対して、韓国のデモに対抗して韓国大使館にデモをするような人々のほうがぼくはまだ好感が持てます。本当に恐ろしく、かつ気持ち悪いのは、あの「文明」を装った上から見下ろす、それでいてものすごい内向きの論理に縛られた、あの視線なのです。