「歴史=物語」の倫理学―《痕跡》と《出来事=他者》のあいだにある「主体」について―

 「歴史」をとりあえず「記述された歴史」という狭義の意味で定義してみよう。次に、この「記述された歴史」が、実際に起きた出来事としての歴史と等しいものかどうか検討してみよう。たとえば史料において、われわれは戦国時代の日本には織田信長という人がいたことを知る。しかし、もちろん同時代には彼以外にも何千万ものの無名の人々がいたのであって、しかし彼らについては、われわれはおそらく永遠に知ることができない。また、「言語論的転回」*1を経た今日では実際に起きた桶狭間の合戦と史料に記述された桶狭間の合戦の間には、どんなに信頼できる史料だろうとなお、埋めることのできない差異があることは常識である。
 以上のことから、「歴史」は「物語」*2であるという言説が産まれる。それはある種の人々、たとえば「新しい教科書をつくる会」のような人々にとっては都合の良いナショナル・ヒストリーを構成するための言い訳であり、このような立場のそれは検討するに値しない。だが、他方で「歴史」は「物語」であるということの意味には、われわれは過去について「ありのまま」には語りえないという倫理的困難性も含んでいるのである。
 高橋哲哉『歴史/修正主義』によれば、野家啓一は『物語の哲学―柳田國男と歴史の発見』において、「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言う。「物語」はそれが記憶の共有を促すがゆえにたぶんに倫理的なものであり、したがってそれは「声高に」ではなく「声低く」語られるべきものである。たとえば「皇国史観」などのナショナル・ヒストリーは「物語」の倫理を「声高に」語ることから産まれる、と彼は論じている。
 野家のテーゼの意味は、「物語」ることの倫理的意味を認識しながら、いわば「物語りえない」記憶や忘却に対する敬意といえるだろう。しかし、その「物語りえない」記憶に沈黙を強いるということは、高橋が言うように、それ自体ある種のイデオロギー性を含んでいるのではないだろうか?「物語りえぬことについては沈黙」し、「物語りえないもの」を祭り上げることは、それは結局のところ「物語りえないもの」の永遠なる封殺になる可能性はないか?
 たとえば、「アウシュヴィッツについては語りえない」という言説が、主にポスト・モダンの思想家と呼ばれる人々によってしばしば語られてきた。ハンナ・アレントは政治による組織的な歴史の抹殺としての「忘却の穴」という概念を用いた。ナチスのような恐怖政治は、犠牲者にまつわる一切の記憶を剥奪する。そこでは、忘却されたことすらも忘却されているのである。アウシュヴィッツにはこの「忘却の穴」がいたるところに穿たれており、したがってその全貌は永久に語ることができない。
 高橋は、この「忘却の穴」概念を特殊な例外的事態としない。「記憶されるべき出来事の核心に<記憶されえぬもの>や<語りえぬもの>があったとしたら、そしてそれが、われわれの歴史の肉体のそこかしこに知られざる<忘却の穴>を穿っているのだとしたら、どうなるか。」*3と彼は問いをたてるのである。「忘却の政治」がなくとも、「もはや語られえないだろうもの」はわれわれの歴史のそこかしこにあり、「忘却の穴」はそのひとつである。野家は、そうした「忘却の穴」は「神の眼」でしか見通せないからこそ「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言うのであるが、高橋はこれに同意しない。なぜならばそれは、「記憶の抹消」を行った「征服者」の行為に加担することにつながるからである、と彼はいう。
 『歴史/修正主義』では引用されていないが、高橋の考えはイタリア人思想家ジョルジョ・アガンベンのそれにと重なる部分が大きい。いささか冗長になるが、ここで彼の議論を少し詳しく追っていきたい。アガンベンは彼の著作『アウシュヴィッツの残りもの―アルシーヴと証人』で、つぎのように述べる。

 したがって、こんにちアウシュヴィッツについては語りえないということを主張している人々は、自分の主張にもっと慎重でなければならない。かれらが、アウシュヴィッツは比類のないできごとであり、そのできごとを前にすれば証人は語ることの不可能性の試練にみずからの言葉をなんらかの仕方でゆだねなければならないと言おうとしているのなら、かれらは正しい。しかし、比類のなさと語りえないことを結びつけることによって、アウシュヴィッツを言語活動から絶対的に隔絶された現実としているのなら、証言を成り立たせている語ることの不可能性と可能性のあいだを回教徒のもとで断ち切っているのなら、かれらは無自覚なままにナチスの身ぶりをまねていることになり、権力の奥義にひそかに加担していることになる。かれらの沈黙は収容所の住人たちにたいするSS隊員たちのあざけりに満ちた忠告のまねをする危険がある。レーヴィはその忠告を『沈んでしまった者と救い上げられた者』の冒頭で書き写している。

 この戦争がどのように終わろうと、おまえたちとの戦争に勝ったのはこのわれわれだ。おまえたちのうちのだれも、生き残って証言をすることはないだろう。が、たとえだれかうまく生き延びることができた者がいたとしても、世間はその者の言うことを信じないだろう。歴史家が疑ったり、検討したり、研究したりすることはあるかもしれないが、確証は見つからないだろう。われわれがおまえたちもろとも証拠を破壊してしまうからだ。なにか証拠が残ったとしても、そしておまえたちのうちのだれかが生き残ったとしても、人々はおまえたちの語ることが途方もないことなので信じられないと言うだろう。(…)収容所の歴史を書くのは、このわれわれなのだ。(Levi 2,p.3)

ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りもの―アルシーヴと証人』4章「アルシーヴと証人」p.211-212

 アガンベンは、アウシュヴィッツの回教徒*4こそが、決定的な証人であるという。アウシュヴィッツは生きている人間と語ることのできる人間を切り離そうとする「生政治」の結実であり、語ることのできる人間と、ただ「生物学的に生きているに過ぎない」非-人間を無限に分割してなお残る「人間的なもの」の残りものが回教徒である。ところで、「語る主体」は「生物学的に生きているに過ぎない」存在とは分裂している。したがって、戦後「生き残って」「回教徒」について「証言」する者は、「脱主体化の主体」*5として引き受けることのできないものを引き受けられさせられているというパラドックスに陥る。ゆえに、生き残ったものの「恥ずかしさ」が産まれる。けして「語りえない」ものを「回教徒」は持っているのだ。
 しかし、だからと言ってたとえば野家のように「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」ということは、「かれらは無自覚なままにナチスの身ぶりをまねていることに」なる。まさにそれこそが、「生政治」の意図に他ならないからだ。「語りえない」ものと「語りうるものの可能性」の中で主体は分裂しているが、他方で「語りうるもの」と「語りえない」ものの間にこそ「証言」の主体はあるのだとアガンベンは言う。

すなわち、主体とは、言語が存在しない可能性、生起しない可能性である。もっと正確に言えば、言語が存在しない可能性をとおしてのみ、言語の偶然性をとおしてのみ、言語が生起する可能性である。
p196-197

「語りえないもの」と「語りえないものの生起する可能性」において、主体は分裂と隔たりに還元しつくされないのである。したがって「脱主体化の主体」であることこそ、「証言」の主体の条件であるのだ。
 ミシェル・フーコーの『知の考古学』においては、「言表されるもの」に注目するあまり「語りうるもの」と「語られたもの」の間で「主体」がご破算になっていたが、そのことについての倫理的意味をフーコーはあまり深く考えていなかった、とアガンベンは言う。そのとき、「主体」は単なる位置や単なる機能でしかならなくなってしまうのである。アガンベンはこの位相を「語りうる/えない可能性」と「語りうるもの」の間にずらす。そのあいだにおいて「主体」は偶然性・可能性の契機として決定的に重要になるのである。
 「忘却の穴」と「証言」は別々のものではなく、「忘却の穴」こそが「証言」を構成する不可分なものであるとするならば、「歴史の物語論」の倫理的な意味は逆転する。安易なアウシュヴィッツの「物語」化への反対であったはずの「忘却の穴は最早知りえない」という言説が、それを言うことによってかえってわれわれをアウジュヴィッツから遠ざけてしまうのだ。

アーレントデリダ
http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/52.html
 さて、ジャック・デリダは、フロイトの上記の議論を参照しつつ、無意識の層に刻み込まれた消えない記憶の束、これを《痕跡》と呼びさらに複雑な考察を加えた。歴史の起源を、なんらかの具体的な出来事ではなく、この《痕跡》にあるとしたのだ。彼のこの徹底した歴史主義批判が示唆しているのは、歴史がいくら起源を事実に求めたところで、歴史が見出すのは、決まって身体の内側、おそらくは精神とでも呼ばれるべき場所に刻まれた《痕跡》であるということだ。歴史がさかのぼることができるのは、内側の《痕跡》までなのであって、けっして、傷そのもの、あるいは身体の外部で、もっと正確を期せば身体と外気が接触するそのちょうど間のところで繰り広げられた《出来事=他者》そのものにたどり着くことはできない(傷とは、内部を外部へと繋げる開口である)。歴史の探求とは、ふつう考えられているのとは逆に、外部へ向かう運動ではなく、徹頭徹尾、内部に向かう運動だということだ。ここでストア派の議論を引いておけば、歴史とは、過去についての現在である。同じく、なまなましい傷が過去であるとすれば、当たり前のことだが、痕跡とは、あくまで、過去についての現在なのである。

「歴史の起源」が《痕跡》にあるというデリダの「歴史主義批判」には確かに理がある。だが、それだけでは不十分ではないだろうか? 《痕跡》しか我々は知りえないとしても、それがゆえに「《出来事=他者》そのものにたどり着くことはできない」と結論づけることこそ、「生政治」的な罠ではないだろうか?それは「証言」は無意味だとした「SS隊員のあざけり」に接続するのではないだろうか?
 そして、「言語論的転回」以後の歴史家は、まさに《痕跡》と《出来事=他者》を切り離すことなく、その連続性を認識することにおいて「歴史」の叙述に取り組んできたのである。

歴史学的認識の限界
http://homepage2.nifty.com/~islands/articles/uemura.html
「記憶と記憶の破壊とは歴史においてはくり返し起こっていることである」とギンズブルグはいう.ここにわたしたちは,この「歴史家」が<歴史>の中に一貫して見ていたものの,その徹底して非妥協的な表現を見るだろう.(・・・)「歴史家」が真実にアプローチするためには,「何ものかの徴候でしかありえない」ような証拠の微細なひびわれに目を凝らすほかない.こうした「歴史家」の倫理的姿勢が,巨大な暴力による組織的な記憶の抹消(ハンナ・アレントのいう「忘却の穴」)に対しては,もっとも非妥協的なひとつの選択を強いるのである.

 レトリックとして「歴史」は「物語」であるというのは許容可能である。しかし、だからといってあらゆる歴史叙述が「物語」として同一の平面に置かれるべきであるとするのは、論理的にも、倫理的にも誤りである。歴史叙述を構成する《痕跡》=「語りえないもの」と《出来事=他者》=「語りうるもの」の連続性を認識するがゆえに、すなわち、われわれがそこに歴史的なものの「主体」を見出すがゆえに、個々の「物語」の差異は単なる差異ではなく、その「主体」との距離に他ならない。そこで「物語りえぬことについては沈黙しなければならない」と「証言」に沈黙を強いることは、両者の断絶を要求することになる。したがって、「神の眼」で無ければ「忘却の穴」を見通すことは不可能であるからこの命題が産まれるのではなく、この命題を語ることによって「忘却の穴」がわれわれの眼から永遠に見通すことのできないものとして祭り上げられるのである。
 ゆえに、野家のような「歴史の物語論」はそれ自体がイデオロギー的な産物であるということができる。それは、「わたしは歴史的な主体を歴史叙述と切り離し、向き合うことをしない」と言う非倫理的態度によって構成されている。しかし、まさにそれが「歴史修正主義者」の本質ではなかったか?《痕跡》と向き合うことから「物語」を見出すのではなく、《痕跡》をいかような「物語」でも生み出せる材料と見て、都合のいい「物語」を打ち立てるのだ。「歴史」が「物語」であればこそ、われわれはその「物語」には非妥協的であらざるをえない。確かに「歴史の物語論」者は、自ら都合のいい「物語」を打ち立てることはしないかもしれない。しかし、彼らの多くの考え方には、「歴史修正主義」を生む契機が強く含まれている、というのも事実なのである。
<参考文献>

*1:とりあえずhttp://ja.wikipedia.org/wiki/言語論的転回

*2:この文脈で使われる「物語」「物語り」には主にフィクションであるという意味と、「語られるもの」であるという意味の二つがあり、厳密には区別するべきであるのだが、両者は常に相互補完的であって、その区別が本論において重要な意味を持つことは無いと判断したため、ここでは両方の意味を含むものとして「物語」を用いた。

*3:高橋哲哉『記憶のエチカ』p5

*4:主に栄養失調によって、肉体的・精神的に限界に達した囚人

*5:「証言」者は、「回教徒」のために証言している。つまり「非-人間」のために「人間」が証言している。そして、「証言」者は「依頼人」にかわって話しているのだから、「証言」する「主体」は「回教徒」=「主体」を破壊された者である。