「ドイツは反省していない」のか?

「ドイツは大戦の罪をすべてナチスに被せ、自分たちには罪が無いと思っている。」という言説は、特に日本の保守派の口からよく唱えられることである。本当にそうなのだろうか。現在のドイツにおける「過去の精算」の一つの例として、id:fenestraeさんが今年の8月1日のワルシャワ蜂起60周年記念での、シュレーダー首相の演説を引用して紹介している。以下孫引きだが、

「私たちは今日ポーランド抵抗軍の男女の犠牲的行為と誇りに深い敬意を表します。63日間もの間ワルシャワの男女の市民がドイツの占領に対し英雄的な必死の抵抗を示しました。彼らはポーランドの自由と尊厳のために戦ったのです。彼らの愛国心ポーランドという国の偉大な歴史の中の輝かしい例であり続けるでしょう。...ポーランドの誇りでありドイツの恥辱であるこの地において私たちは和解と平和を願います...私が生まれ変わった自由で民主的なドイツの首相としてこの希望を表明することは、ワルシャワの蜂起者としてナチの蛮行に立ち向かったすべての人々に感謝することです。」

しかし、この演説に至る道は戦後ドイツにおいてそう簡単ではなかった。戦争責任に関する西ドイツ政府のスタンスは、基本的に政権政党キリスト教民主同盟(CDU)か、社会民主党(SPD)かでかなり温度差があるといえる。この2大政党が政権交代を繰り返すたびに、ドイツの「過去の清算」もまた変遷を迫られてきた。
・1949年〜1969年 CDU政権―アデナウアー、エアハルト、キージンガー(CDUとSPDの大連立(1966-69))の時代
西ドイツ初代首相であるアデナウアーは、西側世界(特にフランス)との関係を重視する立場もあり、連邦補償法の制定やネオナチの糾弾など「ナチスの罪」を徹底的に追及する一方、急ピッチで旧国防軍の名誉回復が行われた。ここで強調されたのが、1944年7月20日ヒトラー暗殺事件であった。1951年10月、アデナウアー政府は次のような声明文を発した。

「多くの国民、とくに前線兵士の諸君がヒトラー体制とその腐敗した政治(の本質)を見抜けなかったことをわれわれは良く知っています。道徳上の義務感と祖国を思う気持ちからドイツを救い、ナチ指導部がもたらそうとした破滅を少しでも食い止めようと最終手段に訴えた人びとの思い出を、われわれはあらぬ誹謗中傷から守らねばならぬと考えます。」

アデナウアーら保守派の意図は、「ナチス時代」をドイツの歴史から切り離し、現政権を「それ以前の」「誇るべき伝統」と結びつけることで、ナチスの罪を免責されたかたちで、分断された「過去」と「現在」を再び統合しようとするものだった。この基本方針は、たとえば1960年代の「フィッシャー論争」に対する政府の干渉にも表れている。また、この時代には非ナチ化で追放された人々の公職復帰が行われたことも無視してはならない。
エアハルト、キージンガーの時代になると、国民の間では既に「ナチスの犯罪追及」に対して厭う動きが出てくる。当然のことだが、過去の「戦争責任」を追及されることは、その当人にとって簡単に許容できることではない。たとえばナチス犯罪の時効問題が焦点になってくるのもこの時代であった。このときは61年から始まった「アイヒマン裁判」の影響もあって時効の延長が決定されたが、79年には再び問題となり、結局33票という僅差でナチス犯罪の時効の無期限停止が決定されることになる。
時効問題に際して、世論は真っ二つに分かれた。そこには「もう終わりにしたい」当事者世代に対して、ナチズムを絶対悪として追及する戦後世代という差が見られた。
・1969年〜1982年 SPD政権―ブラント、シュミットの時代
1969年に首相になったブラントは、そういった戦後世代をある意味では代表していたと言えるのかもしれない。彼は就任演説で、歴代首相の中でもっとも明確にナチス時代の歴史を「断罪」し、また一方で現在の国民はその責任を引き受けるべきであると述べた。それはまた内容において、有名な1985年のヴァイツゼッカー大統領による「荒野の40年」演説を先取りするものであった。

「民族には自らの歴史を冷静に見つめる用意がなければなりません。なぜなら、過去に何があったかを思い起こせない人は、今日何が起きているかを認識できないし、明日何が起きるかを見通すこともできないからです。冷静に歴史と向き合うことは、とくに若い世代にとって大切です。若い世代は、当時終わったことに関与していません。(中略)しかしながら、前世代から引き継いだ歴史から、われわれは誰一人として自由ではないのです。

これはまさにjounoさん(id:jouno:20041026#1098792793)やfenestraeさん(id:fenestrae:20041029#p1)が指摘しているような、「国家性」の断絶と「文化的、民族的、社会的な連続性」の結節だろう。ブラントは、この演説によって「生まれ変わった」自由で民主的な西ドイツを内外に印象付けた。さらに彼は「新東方外交」によって1972年東ドイツと「両ドイツ基本条約」を結ぶなど東西の緊張緩和に向けて尽力した。その中で、戦争責任問題に関してもっとも重要なものが有名な「ワルシャワゲットーでの跪き」だろう。ただし、この行為は世論を2分し、跪きを適切な行為と評価する国民は41パーセントにとどまっていた。
この時代、西ドイツでは2度のヒトラー・ブームに象徴されるように、ホロコーストの「記憶」そのものが風化しはじめていた。しかし、教育改革によってナチスの犯罪に対する言及が教科書の中で大きなスペースを割かれるようになったこと、さらに1979年のテレビ映画『ホロコースト』が上映されたことによって、西ドイツ国民はあらためて「過去なにがあったか」を再認識させられることになった。
・1982年〜1998年 CDU政権―コールの時代
政権交代によって新たに首相となったコールは、歴史教育を明確に「国民アイデンティティ」形成のためのものとして打ち出した。この時代、教科書からナチス関連の記述は相対的に減少し、「保守派の巻き返し」が成功したかにみえる。1985年にはビットブルグ墓地参拝問題も起こっている。しかし、一方で同年にはヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」(演説があり、歴史認識の後戻りはむしろ不可能な状況であったといえよう。
・現代
現在ドイツ連邦共和国の首相であるシュレーダーが、就任以来強制労働の補償問題など、戦争責任の問題に積極的に取り組んでいることは良く知られている。冒頭に紹介した演説はここに直結している。しかし、現在のドイツの「過去の克服」がスムーズに進行しているわけではない。その典型はドイツの保守派の批評家であるヴァルザーの言説に最も良く表れている。彼は、ホロコーストがことさらにドイツのメディアにおいて強調されることによって、かえって国民は過去から目を背ける結果になっている、と指摘する。形式的、儀礼的な「アウシュビッツ」の反省は、ドイツ国民の誇りを奪う「道徳的棍棒」に他ならない、と。ヴァルザーはドイツ国内で大きな支持を受けている。ヴァルザーの発言は、見方によっては、「過去の克服」の形式化・儀礼化に警鐘を鳴らすものとも読める。しかし、現実にはこの発言は「過去の克服」をもう終わりにしたい人々、あるいは反ユダヤ勢力・ネオナチにたいして「お墨付き」を与えたという結果になっている。
ヴァルザーのような立場は、1980年代のノルテらのような「ナチズムの相対化」を狙っているわけではないという点で新しいものであるといえる。しかし、結局根は同じで、「過去」と「断絶」しつつ「継続」することの困難さを表しているのではないだろうか。「反省すべき過去」を引き受けている限り、いつまでも「誇り」を取りもどすことが出来ないと考えている人は多い。これは理論のレベルではなく、モラルの問題ですらなく、心情のレベルの問題である。
今後、ドイツの戦後処理がどのように進んで行くのか、予測することは難しい。ただ一ついえることは、ドイツはけっしてアデナウアーの時代の歴史認識に後戻りすることは出来ないということである。それは今まで周辺諸国と築き上げてきたコンセンサスと、積み上げられてきた歴史研究の成果を、崩壊させてしまうことに他ならないからだ。ドイツ人はやはりこれからも「ナチスの罪」を自らの問題として考えていかざるを得ない。よって、冒頭の疑問に対する答えは「NO」であろう。ドイツ人はナチスの罪を自らのものと考えているからこそ、またその「過去」を反省すべきものだと(多くの人は)認識しているからこそ、苦闘しているのだと思う。