死神の名づけ親

死神といって連想されたのが、グリム童話の『死神の名づけ親』だった。
『死神の名づけ親』の夫婦は、死は誰にでも平等だからという理由で死神を息子の名付け親にするわけだけれど、実際は死は匙加減次第でどうにでもなったりするものであった。
ベッドをひっくり返したり蝋燭を継ぎ足したりすれば、死ぬはずの人が死ななくなる。死は避けられない運命のようでいて、実は回避する余地がある。生と死は死神や医者によって選択することが出来るのである。
ところで日本では、現行の死刑制度においても死刑判決が出たからといって必ず死刑執行が行われるわけではなく、死刑執行を長く行わないこともできる。実際、一時期日本でも事実上死刑が執行停止されていた時期がある。
つまり、鳩井ヒロシが死刑執行にサインするかどうかは「自由だーーーーーーーーーーーーーっ」なのであって、death is freedomなのである。
しかも、法相は死刑を自ら執行するのではなく死刑をアウトソースする。ここが巧妙で、実際の死刑執行の段階を考慮するとき、政治的決断はすでに終わっているため我々は倫理的次元でしか語れなくなるのである。
だから、「死刑は人が社会正義を貫くための必要悪なのだななるほど自覚した辛い仕事を引き受ける死刑執行人に敬礼!」みたいな厚顔無恥な言説がまかりとおる。
しかし、死刑執行人にきつい仕事をアウトソースしているからといって法相を非難しようとすると、それを決断する法相は国民の代表で……となり、責任が分散され、結局は政治的決断の問題には行き着かない。
そして、一人ひとりが死刑の責任の重さと必要性(!)を自覚し…のような、倫理的な話に再び下りてくる。
なので必要なのは、やはり
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080218/p1
で書いたように両方の側から国家を追い詰める作法なのではないか。
まあ両方といっても、今の国民は「好きな言葉は…死刑執行*1」状態だからなあ。なんとも。

*1:死刑執行だぜー つーるーせー 厳罰化するのが 快感だぜー