軍事のコスト

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100103/p1
 本題とはずれますが、軍事的合理性なるものをできる限り考慮しないということによって、軍事的活動のコストをあげ、戦争を抑止していこうという思想があります。これは、軍事的合理性についてまったく考えないということではなく、軍事的合理性というものの存在を認めたとしても、それを価値の序列付けにおいて低く見ることによって、軍事的にとれるオプションを制限し、その結果軍事的活動のコストが高まるというものです*1
 マイケル・ウォルツァーの思想については全面的に同意しているわけではありませんが、jus in bello―戦争行為における法を厳格に適用していくことによって、戦争のコストを上昇させようとするプロジェクトは、考慮に値するものであると思います*2。ウォルツァーは、倫理的価値を軍事的合理性に対して優位に置きます。たとえば、ある村がたとえゲリラの温床として機能していたとしても、非戦闘員を追い出して村を焼き払うことはやるべきではない。あるいは軍事介入する場合でも、非戦闘員の死傷率が高まる空爆ではなく、たとえ戦闘員のリスクが高まるとしても地上部隊を派遣するべきだといいます*3。ウォルツァーのjus ad bellum―戦争における正当原因の議論については問題が残るとしても、とりあえずjus in belloを厳格適用していこうという方向性については同意が可能かもしれません。
 ここで注意しなければいけないのは、もちろん非対称性の問題です。jus in belloは原則として戦争の当事者双方に適用されますが、ウォルツァー自身も行っているようにその非対称性は考慮しなければいけません。たとえば侵略された勢力がとるゲリラ戦術は非戦闘員をも危険に晒しますが、非戦闘員の保護についてより責任を負わなければいけないのは侵略した勢力の側なのです*4。そもそも、ゲリラ戦術が機能しているということはその地域の非戦闘員がゲリラ戦術をとっている側を支持しているということを表すのであって、それはつまり、その軍事介入には正当性が無いことを意味するのです。
 このような軍事的合理性を価値の序列付けにおいて低く位置づけ、その結果として軍事のコストを上昇させるというプロジェクトはもちろん、法的整備を含め、軍事的オプションを取ろうとする国への具体的な圧力となってはじめて実効的になるわけですが、そのためにはまずはそうした世論の形成が重要となるわけです。ある意味でそれは、いかに軍人に歯ぎしりをさせるか、という議論ともいえるかもしれません。

*1:これはApemanさんなどもかねてから指摘し続けていることですが。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090122/p1

*2:『正しい戦争と不正な戦争』風行社2007

*3:ところが、ことイスラエルのこととなると、とたんにウォルツァーは甘くなります。これはイスラエルの侵略行為への荷担のみならず、自分自身の言説の正当性そのものも危機に晒しています。さらに、「最高度緊急事態」の導入によってjus in belloに「例外」をつくることについては、杉田敦が批判しているように彼のプロジェクトの可能性そのものをご破算にしかねないと思います。

*4:ところが、イスラエルパレスチナの問題になると、ウォルツァーの非対称性への配慮はどこかへ吹っ飛ぶのです。