植民地支配の「ヤヌスの顔」

■搾取を語るなら論文を読め
http://anond.hatelabo.jp/20100119124726

植民地主義者の欲望
http://d.hatena.ne.jp/usoki/20100122/1264167020

■搾取を語るなら論文を読め
http://anond.hatelabo.jp/20100123120122

 この問題って、不用意な発表をした学部生を、人に説教したくてたまらないタチの悪い院生連中がウホホホーイ!とばかりにフルボッコにする構図にも見えて大変心が痛むのですが、id:usokiさんの本領を見た気がしたので、それに触発されて少し書いてみました。
 ぼくも語学というのは大変苦手なので、もしかしたら自分の恥を晒すかもしれないのですが、やはり

 Professor Eto remarks that Japan's vices were no different than those of European colonists. This may be true, but its virtues were quite different. There was no legitimizing myth that the Japanese could make stick. They were not good tutors to teach their subjects how to achieve the goal of independence, as at least some Filipinos thought was true of American colonialism. They were not good exemplars of liberal democracy, as at least some thought that the British were in India. The virtues that the Japanese shared were hard to justify philosophically, but easy to adopt practically: military success, the uses of a strong state, rapid economic development, modern industrial structure. Thus Koreans greeted liberation in 1945 with a profound rejection of Japanese colonialism, yet have never been able to rid themselves of its Janus-faced influence.
(元増田さんの訳)
 エトウ教授は日本の悪徳はヨーロッパの植民者のそれと何ら変わるところがなかった、と述べている。それは正しいのかもしれないが、一方でその美徳はヨーロッパ人のそれとは全く異なっていた。日本人には、信じるに足る「自らを正当化する神話」は存在しない。少なくとも何人かのフィリピン人は、アメリカの植民地主義は独立というゴールへと至るための良き教師であると信じていたが、日本は良き教師ではなかった。少なくとも幾人かはイギリスはインドにとって自由民主主義の良き模範であったと信じているが、日本は良き模範でもなかった。日本がもたらした美徳の数々は、倫理的には(philosophically)正当化するのは難しいが、実際的には(practically)容易に受け入れられるものだ:軍事的成功、強力な国権の運用、急速な経済発展、そして近代的な工業セクター。それゆえ、1945年に韓国人達は日本の植民地主義に対する全面的な拒絶を唱えて解放を謳歌したが、その一方で日本がもたらした様々な影響からは抜け出すことが出来ないという、二律背反に直面することになったのである。

の元増田さんの訳と解釈は、かなり不正確ではないかと思います。
 元増田さんの致命的なまちがいは、ブコメでも既に指摘されているように、philosophicallyを倫理的と訳してしまったことです。この部分を読み違えるとこのパラグラフ全体の意味が何いってるかわからなくなります。
 このパラグラフのポイントは、id:Apemanさんも指摘している通り、philosophicallyとpracticallyの対比にあるわけです*1

  • philosophically群
    • European, the goal of independence, liberal democracy,
  • practically群
    • Japanese, military success, the uses of a strong state, rapid economic development, modern industrial structure*2

 では何において対比されているかというと、もちろん植民地主義のvirtuesにおいてです。欧米の植民地主義のvirtuesはphirosophicallyに根拠づけられるものであったが、日本のvirtuesはpracticallyに根拠づけられるものであった、というわけです。であるがゆえに、justifyやlegitimizingも「正しさ」を示すような「正当化」という意味ではなく、むしろ日本の植民地主義を根拠付ける、正統づけるものは、ぐらいの意味になるでしょう。
 さて、植民地主義のvirtuesとvicesは、まさに「ヤヌスの顔」のように、両面的なものとして出現します。サルトルふうに言えば「植民地のよかった点と植民地の悪かった点があるのではなく、ただ植民地がある」のです*3。さらに、virtuesとvicesを横軸とするならばそれの縦軸として、「近代化」にたいする視点があります。usokiさんも指摘されているように、元増田さんは近代化を無批判に善としているようですが、「いずれにせよ近代化したのは良いことである」という近代化賛美も、「いずれにせよパターナリズムはよくない」という伝統賛美もどちらも単純にいえるわけではなく、じっさいは植民地主義とは近代性と伝統性が複雑に絡み合った問題系である、というのがまず前提にあるはずです。ぼくは植民地問題の専門家ではありませんが、この点は学問研究の場においても、実践の場においても、すでに常識となっているのではないでしょうか。だからこそ、id:rhatterさんが紹介しているように*4、まさに本人が「朝鮮支配の過酷な側面を否定したり矮小化する意図はまったくありません」と主張するのです。このあたりの予備知識があれば、元増田さんもこのパラグラフをあのように読むことがなかったと思われるのですが。
 ところで、日本の「植民地主義」を、それを肯定的にであれ否定的にであれ中立的にであれ「特殊なもの」としてみなす考え方については、ぼくはやや危険性があると思います。何であれ日本が「特殊」であるということはすなわち、「一般的」な植民地主義があるということです(たとえば、イギリス、フランスのそれ)。しかし、そのような二項対立は果たして可能なのでしょうか?
 19世紀以来、ドイツの歴史学においてはSonderweg"特有な道"問題というのがありました。ドイツの近代化は、イギリス・フランスの「一般的」な近代化と比較して「特殊」だったというのです。古い記事ですが。

■ドイツ特有の道
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040329/p1
「ドイツ特有の道」論の問題は、イギリスやフランスなどの近代化モデルを「正常な」ものとして無批判に受容し、その地点からドイツはいかにずれているかということに、歴史認識を偏らせることにあった。イギリスの歴史家ブラックバーンとイリーは、 『現代歴史叙述の神話 ―― ドイツとイギリス』 でこの傾向を、「ドイツの歴史学は『実際はどうでなかったのか』を研究する学問と化している」と、ランケの有名な文句を逆転させた挑発的な批判を行っている。各国の近代化過程を構造的に比較し、理解していくことが悪いのではない。実際には存在しなかったものを「手に入れられたはずのもの」として神聖化してしまうことが問題なのである。理論が実証に先行し、教条的であるという謗りを免れえなくなる。

結局のところ、「一般/特殊」の構図というのは、それぞれの論者が持つ先入観を単に投影しているだけではないのか、という疑いは免れえません。トマス・ニッパーダイは、イギリスやフランスの近代化だってそれぞれ「特殊」だったのであり、Sonderwegという視点をそもそも放棄するべきだと主張しています。
 もちろん、実証研究の場では、「特殊」という用語の恣意性は念頭においたアプローチがなされているはずだとは思いますが、むしろ人口に膾炙した歴史学の場では、まだまだ(植民地主義に限らない)「日本特殊論」が大手を振るっていると思うので、蛇足ながら付け加えてみました。

*1:やや乱暴に訳づければ、「形而上的なもの」と「形而下的なもの」の対比といえるかもしれません

*2:細かいつっこみですが、これを「近代的な工業セクター」と訳すのはどう考えても変です。素直に「近代的産業構造」とするべきでしょう。

*3:こちらもhttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090412/p1

*4:http://d.hatena.ne.jp/usoki/20100122/1264167020#c1264188490