ベナンダンティ セカイ 説教くささ

ベナンダンティの話を。
ベナンダンティというのは、中世末期、イタリアのフリウーリ地方ではキリスト教化以後も残存していた異教的な農耕儀礼のことである。内容は、ある夜になると選ばれし男女が収穫物を守るため魂を狼の姿に変えて悪霊と戦うという…まあ、現代でいえば「私はアトランティスの転生戦士なのよ!」つーのと同じようなものだと考えてもらえばいい(たぶん嘘)。ベナンダンティの伝承は、中世のヨーロッパがけしてキリスト教一辺倒の世界ではなく、土着の信仰が民衆独自の世界を形成していたことを示している(ル・ゴフの言う「もう一つのヨーロッパ」)。しかし、近世に入って異端審問が盛んになると、ベナンダンティは教会によって「悪魔崇拝」として再解釈され弾圧される。そして18世紀にはほとんど姿を消してしまう。
なにが言いたいのかというと、多分セカイ系の「説教くささ」についてなんだと思う。われわれはキリスト教というものは世界において多様な価値のひとつに過ぎず、しかも異端審問というのは教会の権威が絶頂にあった時代ではなく、凋落していた時代に最もよく行われたことを知っている。しかし、当のベナンダンティ達自身にとってみればどうだろう?彼らにしてみれば、教会からの弾圧は悪霊に対するベナンダンティの戦士の敗北であり、セカイによる理不尽かつ絶対的な死刑宣告ではなかったか。
ここで、二つの物語を比べてみる。すなわち「宗教改革の波に脅かされる教会が政治的権威を引き締めるためにベナンダンティは弾圧された」という物語と、「圧倒的なセカイによってベナンダンティは弾圧された」という物語。なんか前者よりも後者のほうが説教くさくない?セカイ系の断絶というのはセカイが絶対的で、問答無用なものだから発生する(セカイに対して働きかける術はない!)から、セカイを絶対的なものとして描けば描くほど自然に「どんなりふじんなことがあっても、ぼくららはそれをじゅようしていきていかなければうんぬん」というお説教度は強まる。「イリヤ」「サイカノ」等はこの典型的な例だと思われる。
じゃあ、前者の物語なら説教くさくないのかと言われればそれも嘘になる。なぜならば前者はシャカイ系的な文脈で読まれることが多いからです。立ち上がれ民衆よ!腐敗した教会権力を打破せよ!(つーか15世紀のイタリアの農民に教会との対決を強いてもそれはそれで酷な話だ)。
セカイ系とシャカイ系は説教臭さという点では同じです。しかも、それらはひとつの物語の中で共存することもありうる。例?最近の塩野七海。要するに艱難辛苦を乗り越え偉大なるローマ帝国を打ち立てた英雄達を描きながら、民衆には「歴史において必然的な」犠牲を強いるのが「ローマ人の物語」の手法ですから。