思いのありかと偶有性

たとえば、「私は日本人である」という自己認識を肯定することと、愛国心の間には大きな差があると思うのです。わたしは自分が日本人であることを知っているし、日本は経済大国で、総理大臣の名前が小泉であるということも知っています。しかし、そんなことを百っぺん繰り返して唱えてみたところで、「愛国心」というものには結びつきません。せいぜい、「小泉がこれ以上いらん事してくれたら、オレの生活にも迷惑がかかってくるではないか。これは選挙行って辞めさせとかねばいかんな。」とか思うくらいです。そして、これは別に自分が日本人だということを否定している行為でもないでしょう。むしろ肯定しているからこそ選挙に行くw。
愛国心」は、「私は日本人である」というときの「私」と「日本人」の間に特別な関係を見出そうとしなければ発生しません。「私」が「日本人」であることは普通は何の理由もない、偶有的なものですが、「愛国的な人」は、その遇有性に大きな価値を見出します。わたしはこの国の先人たちが残した遺産を受け継いで生きている。だから、わたしがこの国にコミットメントすることはわたしの義務である。ちょっと待ってください。、あらゆるものはあらゆるものと少しずつ関係しているのです。ちょっと回りを見渡せば、わたしの生活がこの国の先人たちが残したものだけで成り立っているわけではないことに気づきます。しかし、「愛国心」はそれを純化しています。「日本人」というわたしのアイデンティティを構築するために、あるものは捨て、あるものは採用することで、ひとつのストーリーを「物語」ります。われわれはけしてそれらを選択したわけではない。むしろ選択していないがゆえに、つまりそれらがありてあるものであるがゆえに、その物語に超越的な説得力が構築されるのです。偶有性が物語に息を吹き込むのです。人々は感動に打ち震えます。「わたしは日本人に生まれた!なんという脅威だろうか!」そして、だれも物語の恣意性には気づきません。そうして人々ははじめて、その国家と国家の歴史を自分の背中に背負うのです。考えてみれば、アイデンティティというものは、ある面ではおしなべて偶有性の物語化であるといえます。ただ、「日本人」というアイデンティティは、他と比べて、他者(国家)が語った物語であるという側面が大きいのです。
これの何が問題なのか?物語には抑圧がつきものです。物語ることの裏には、多数の物語られなかったものが渦巻いています。特に「日本人」というカテゴリーは多くの人々を含んでいるだけに、抑圧の度合いも強いわけです。「わたしは日本人だから日本代表を応援する。」という言い方は、多くの別の理由から日本代表を応援している「日本人」や、日本代表を応援していない「日本人」を抑圧することになります。「んな、サッカーくらいでおおげさな。」そうかもしれません。しかし、これが「政治」という分野の問題になるとまた違ってくるだろうし、僕はこういうサッカーなど、日常のひとつひとつ小さな物事に対する思いこそが、人にとって実は大切なのではないかと思ったりするのです。
思えば、僕がドイツに住んでいた頃、たまに帰りたくなっていたのはあくまで「丸亀のラーメン」とか「北星堂のマンガコーナー」とかがあるあの町であって、「日本」ではなかった。あのころの気持ちを「日本への郷愁」という言葉でまとめるのは、何かいろいろなものを切り捨てているような気がして違和感があります。子供特有の世界の狭さ?かもしれません。しかし、大人になって世界が広がっていく中で、偶有性によって掠め取られていった何かもあるのではないでしょうか。今では、逆にあの頃住んでいた場所に戻りたくなりますが、その思いの矛先は特大のシュニッツェルを出すあのレストランだったり、毎週日曜日の朝にパンを買いにいっていたベーカリーに対してであって、けしてドイツに対してではないのだなあと思います。まあ、それとは別にドイツ行きたいという気持ちもありますが。