羅生門の不可視化

http://www.chosunonline.com/article/20080213000055
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.chosunonline.com/article/20080213000055
確かに羅生門を連想せずにはいられないニュースだけど、記事にしろ、ブクマにしろ、関連リンクにしろ、どれも羅生門的なものを後進性のあらわれと結論づけて、それで終わりにしてしまう感覚って何だろう。確かに、文化財保護の面から言えば、韓国は「遅れて」いたのかもしれない。だが、「遅れている」の逆つまり「進んだ」状態とはどのようなものだろう?
たとえば日本が「進んでいる」と考えてみる。なるほど。確かに法隆寺金閣寺は浮浪者の巣窟と化していないかもしれない。それらは「歴史的価値」を損ねないように保護され、観光客は「浮浪者」のような「汚いもの」を見ることなく、こうした歴史的建造物を楽しめるようになっている。
しかし、日本にだって勿論浮浪者はいるのだ。ただ彼らはそうした文化財の近くからは見えないように排除されているに過ぎない。いや、文化財のみならず、駅のホームや公園など、人々の目につく所からは巧妙に排除されてしまっている。
韓国もそうすればよかったのだろうか。
ここまで書くと、大抵の読者は事態を理解し、ひとつの解決策を導き出す。「なるほど。確かに醜いからといって浮浪者を切り捨ててしまうのはよくないよね。彼らも人間だし、立ち退きって言われたら住む場所が無くなる。じゃあ、浮浪者を施設なり何なりに保護した上で文化財などから立ち退きいただければいいんじゃないかな」
ちょっと待って欲しい。それは結局同じではないのか?浮浪者は汚いし醜いので文化財の近くにいられると困る。だからお引取り願おう。その意図が何ら変化したわけでは無いのだ。その意図を保持しておいてなされる「保護」は欺瞞でしかない。
欺瞞でもいいじゃないか救われればという意見もあるだろう。これに対する反論は二つある。一つは、そうした欺瞞のもとでなされる保護は、大抵の場合まったく劣悪なものであることだ*1。もう一つは、いかにその保護が正しいように見えても、誤った意図から発せられる保護は、やはり間違っているのだ、というものである*2
では、「浮浪者が南大門に住む権利を認めるべきだし、再建された後もずっと住んでいてよい」という意見はどうだろうか。これも誤りであると思う。それは悪しき寛容主義の発想である。たとえば「寛容にもとづいてイスラムの女性に対する抑圧を認めるべきだ」というようなたぐいの。つまり、この発想は「国宝級の文化財に浮浪者が住んでいる(た)」という圧倒的に非対称な事実に対して、確かに物理的な不可視化はしようとはしていないが、精神的には見ないようにしているのである。
結局、何か根本的な解決策を見つけないといけないのだし、この南大門の羅生門性はそれをわれわれに強いてくるようなインパクトを持っていると思ったのだが、再建のどさくさで浮浪者は排除されるんだろうし、それは韓国や日本で当然のこととして、好意的にしか報じられないのだろうなあとも思うと、もにょらざるを得ない。

*1:http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070215/p1

*2:少しずれているかもしれないが、"真実の装いで嘘を言う"(http://d.hatena.ne.jp/flurry/18001024)ことに感覚としては近いかもしれない