「デモ」と「ただ歩くこと」

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イベントが「デモ」だったか「ただ歩くこと」だったかを区別することにあまり意味はありません。
「デモ」とはすなわち「ただ歩くこと」でありうるし、「ただ歩くこと」から「デモ」は発生しえます。まさにその未分化であるところが、「デモ」という政治運動において決定的に重要だと思います。
そもそも届出のデモは「デモ」ではないと言う人もいるけど、そも人が企画したデモの尻馬に乗るだけでデモを企画したことは無いぼくがそれを言うのはおこがましいわけですが、届出のデモも立派な「デモ」だと思います。でもそれはデモが「ただ歩くこと」では無くなったことを意味しないし、もちろん逆に無届だからといってそれはデモではなくても「デモ」でないとは限らない。
「デモ」とはつまり、そこに異議が存在するということを示すことだと思います。別に主張の中身は何でもいい。悲壮な顔でやる必要はない。楽しくやっていいと思います。でもいずれにせよみんな社会における何らかの支配的なものに対して異議があるからデモをやっている。そしてその方法というのが、「ただ歩く」という、なんら特別なところが無い行為です。プラカードを持ったりしている人もいるけど、ときどきコールしたりもするけど、でも基本的には「ただ歩く」。俺はデモをやるんだと明確に意識してデモをやる、ということだけじゃなくて、ただてぼてぼ歩くこともまさに「デモ」である。ある政治的な異議申し立てを、特別なことをするわけでもなく、しかし私は異議があるんだということを表明することこそ「デモ」の意義だと思います。
さて、このことを踏まえたうえで主張します。「デモ」は「ただ歩くこと」ではないとみなされる社会は恐ろしい社会です。逆に「ただ歩くこと」が「デモ」ではないとみなされる社会も恐ろしい社会です。実際の事実を知ってから〜式の、形式に着目して「デモ」側に味方するか警察側に味方するかというやり方は、まったく中立ではないのです。それは政治の忌避あるいはまつりあげに他ならないのであって、「民主」の放棄であり無自覚な抑圧の正当化でしか無いのです。